豪族の官僚化・貴族化はどのように進行していったのか?

日本古代史の基本のキホン
乙巳の変以降、豪族の官僚化・貴族化はどのように進行していったのでしょうか。今回は、日本古代を彩った100の豪族を網羅した現代新書の最新刊『日本の古代豪族 100』より、律令国家形成の過程を総ざらいした部分を一部抜粋してお届けします。

蘇我氏の時代

大連・大伴金村が6世紀前半ころに、かつての外交失策の責任を追及されて「住吉の宅(すみのえのいえ)」に籠もって引退し、6世紀末には物部氏が蘇我氏との激しい対立の末に武力対決に敗れて衰退した結果、以後、大和政権の執政官は大臣の蘇我氏のみとなった。いわば蘇我氏一頭体制である。

蘇我氏は、氏としては新興であるけれど、かつての名族葛城氏と同族関係にあったため出自においては格が高く、大伴氏、物部氏とは違って、大王家と姻戚関係を結ぶことも可能であった。

蘇我氏と天皇家

欽明に稲目の娘・堅塩媛(きたしひめ)が嫁いで13人の皇子女を産み、その妹(叔母ともいわれる)小姉君(おあねのきみ)も5人の子を産んだ。大勢力となった蘇我氏および蘇我系王族から、のちに用明、崇峻(すしゅん)、推古と3代40年以上にわたって、皇位が継承された。その全盛期が推古朝であろう。

 

この時代は推古天皇、厩戸皇子(うまやどのおうじ:聖徳太子)と大臣蘇我馬子のいわばトロイカ体制で政権運営が進行した時代であった。

蘇我氏は、配下に倭漢氏、西文(かわちのふみ)氏、また白猪史、船史など渡来人王辰爾(おうしんに)の後裔氏族や、鞍作(くらつくり)氏などを置き、彼らの先進的な技術や文化を駆使して官僚的に使いこなした。

そのうえに飛鳥文化が花開いたのであった。推古朝の間に46ヵ所の寺院が創立されたと伝えられているが、いずれも蘇我氏の影響力の強さを物語るものであろう。

飛鳥寺本堂(Photo by iStock)

彼らはもともと官僚的な働きによって評価を高め、大臣の地位まで駆け上がったのだが、推古朝の終わりごろから、しきりに葛城氏との系譜的結びつきを強調しだすようになる。自分たちは名族葛城氏の後継であるとする意識が強まっていくのである。

長年、推古朝のもとで政権の第一人者として君臨してきた大臣・馬子の自信が、官僚としての貌から豪族としての貌へと変貌しようとしていたように見える。天皇を越えようとの志向性が露わになり、その末にこうした動きへの反動としての乙巳(いっし)の変が勃発するものと思われる。

周知のように皇極(こうぎょく)天皇4年に起きた乙巳の変のクーデターで、権勢を揮っていた蘇我蝦夷(えみし)、入鹿(いるか)は中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)、中臣鎌足(かまたり)らによって滅ぼされた。

その結果、皇極天皇は皇位を降り、弟の孝徳(こうとく)天皇が即位した。新政権の誕生である。中大兄皇子は皇太子、中臣鎌足は「内臣」になったとされる。

このとき滅んだのは言うまでもなく蝦夷、入鹿の系統であって、蘇我氏全体が滅んだわけではない。改新政権でも蘇我倉山田石川麻呂(くらやまだのいしかわのまろ)が右大臣となって政権を支えた。しかし、以後の蘇我氏には、やはり昔日の面影はなかった。

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