2022.07.20

「海軍の戦果には極めて疑問あり」現実を見ていた情報参謀の奮闘

台湾沖航空戦が「大戦果」になるまで
混乱する戦時中に、いかなる場合でも事実を冷静に見定めようとした情報参謀がいました。現地に赴き、正確な情報の重要性を強調した堀栄三の冷静な行動は現代にも示唆を与えるものでしょう。

関係者の証言と資料を元に昭和を生きた参謀たちの実像に迫った前田啓介氏の『昭和の参謀』から、第6章から堀栄三の台湾沖航空戦を巡る奮闘を抜粋してお届けします。

台湾沖航空戦「大戦果」の現場へ

1913年(大正2年)生まれの堀栄三は後に陸軍中将、堀丈夫の養子となった。堀丈夫は、陸大を出ていない、いわゆる「無天組」だったが、陸軍航空本部長など航空畑の要職を歴任した。堀栄三は東京陸軍幼年学校から陸軍士官学校に入学、1934年(昭和9年)第46期生として卒業した。連隊勤務などを経て、陸大を受験する。1940年(昭和15年)、無事陸大に入学し、日米開戦の翌年1942年(昭和17年)に卒業した。

1943年(昭和18年)3月から半年間ほど、陸士の教官を務め、この年の10月、大本営第二部(情報部)第十六課(ドイツ課)に配属された。陸大卒業後、堀は軍や師団でも参謀を務めておらず、はじめて金モールの参謀飾緒を吊すことになった。もっともこの時まで参謀だけではなく、情報に関わる仕事をしたことはなかった。陸大でも情報のための教育は受けたことがなく、いわば、素人然とした状態で、堀は情報参謀として戦争の渦中に立つことになる。

1944年(昭和19年)10月、堀は『敵軍戦法早わかり』の第一線への普及を目的に、フィリピンの第十四方面軍への出張を命じられた。東京から汽車で宮崎まで行く車中で、台湾沖航空戦がおこなわれていることを知った。13日昼少し過ぎ堀は新田原(にゅうたばる)基地に到着する。そこから南方へ向かう飛行機を探しマニラまで飛ぼうと考えた。

しかし、指揮所の入り口には「只今、台湾沖にて航空戦が行われています。沖縄、台湾には空襲警報が発令中のため、南方行きの便は全便中止します」とはり紙があった。堀は基地にいた将校に「どんなボロ飛行機でもいいから鹿屋(かのや)まで何とかしてくれ!」と、強硬に頼み込む。「航空戦の実態を確かめたい」という思いが頭の中に閃(ひらめ)き、消えなかった。

用意されたボロ偵察機に乗り、鹿屋の海軍基地に着いた堀が、目にしたのは戦果に沸く海軍の将兵の姿だった。飛行場脇にあったコンクリート半地下式戦闘指揮所である大型ピストでは、帰還してきたばかりのパイロットたちが大きな黒板の前に座った司令官や参謀に戦果を報告していた。
「○○機、空母アリゾナ型撃沈!」
「○○機、エンタープライズ轟沈!」
報告を受けた司令官や参謀たちは「やった! よし、ご苦労!」などと言葉をかけ、戦果を直ちに黒板に書いていく。その間、入電もあり将校が読み上げる。
「戦艦二撃沈、重巡一轟沈」
そして、この戦果も黒板に書き込まれる。戦果の報告があるたび、歓声が上がり、ピスト内は興奮状態であった。一人、堀はこの光景を努めて冷静に見ようとした。
「一体、誰がどこで、どのようにして戦果を確認していたのだろうか」
堀は報告を終えてピストから出てきたパイロットを片っ端から呼び止めて、尋ねた。
「どうして撃沈だとわかったか?」
「アリゾナはどんな艦型をしているか?」
「暗い夜の海の上だ、どうして自分の爆弾でやったと確信して言えるか?」
と矢継ぎ早に質問を繰り出す堀に、パイロットたちの答えも弱々しくなる。パイロットの報告する戦果を誰も審査していない。
「戦果はこんなに大きくない。場合によったら三分の一か、五分の一か、あるいはもっと少いかも知れない」
そう直感した堀は鹿屋の飛行場の芝生の上に座り、薄明かりの中で文書を作り、夜7時、所属長である大本営第二部長の有末精三に宛て緊急電報を打った。

「今回の海軍の戦果には極めて疑問があり、小官の鹿屋における観察としては、如何に多く考慮しても撃沈せる米艦は数隻を出でず。それも空母なるや否やは不明なり」(『歴史と人物』1986年夏号)

この電報を打った時のことについて堀が後年、保阪正康に証言している。

「私の記憶では、台湾沖航空戦の戦果は信用できない、空母を撃沈したとしても一隻か二隻、確認の必要がある、という内容だったように思います。実際、私は情報参謀として、『米軍の戦法早わかり』という書をまとめていて、日本は偽戦果のために次の作戦計画が支障をきたすというのは、じつに多いことがわかっていたのです。これを正したい、とにかくこれ以後の作戦計画を誤った方向に進めたくないとの思いをもっていました。私の電報を有末さんがどうしたか、あるいはその後これがどのように作戦計画に生かされたのか、は私にはよくわかりませんね」(保阪正康『陸軍良識派の研究』)

電報を受け取ったとされる有末は台湾沖航空戦に関して次のように語っている。

「海軍は海軍で、陸軍は陸軍で、手柄顔に誇大な発表をする。何遍か俺は交渉したんだけれど皆さん、『いや、これは海軍の士気に関する』というんだ。それの失敗したのが、あの台湾沖海戦だよ。
しかも、その非常に誇大なやつを、そのときは米内(よない)(筆者註:光政(みつまさ))さんと杉山(すぎやま)(同:元(はじめ))さんが話しあって、それで小磯(こいそ)(同:国昭(くにあき))さんは喜んじゃって、それでもう、これこそ回天の戦機、まさに戦争は勝ち戦さだっていうわけなんだ」(『偕行』1980年3月号)

 

この回想を読む限り、堀の電報が有末の手元に届いていたとは考えにくい。

堀が戦果は誤りであると見抜いたのは、1年間の戦法の研究を通して、各種の情報、戦例、戦闘の実情、日米両軍の戦力の比較、制空制海の戦理、航空機の特性などを見てきた知識の総蓄積があったからだ。そしてその際、重要なことは「決して感情を入れないこと」であり、「情報の職人には、経験と知識と、深層、本質を冷徹に見る使命感が大事」だった。堀からすれば作戦を担当する参謀は、それができていなかった。「作戦当事者が誤るのは、知識は優れているが、判断に感情や期待が入るからであった」と見る。しかも、「この重大なときに作戦参謀がどうして鹿屋に馳せ参じないのか」という憤りもあった。

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