2022.07.25

大人に見捨てられ、国に見捨てられた…戦争で親を失った「戦災孤児」の悲しみと諦めの背中

肉親の死によって孤児になった子たち

「時代が時代、仕方ない面があった」

「とは言っても行政も守るは守っただろう」

以前、〈戦災孤児〉のことを少し書いたところ、このような声をもらった。あれには、ほんとうに驚いてしまった。なんでも今の感覚から物事を見、自分ごととは考えずに過ごしてしまう。過去を忘れる怖さ、危うさのために、また今回、筆をとってしまった。

したがって以下に目新しさはなにもない。年配の方なら、そうだったな、と思い出されるくらい、かつては衆知のことだったでしょう。それでもふたたび皆で思い出すために、いくつかの本を抜粋しながら綴ってみたい。

真夜中の手入れで警察に一斉検挙された上野駅地下道にいた「浮浪児」。昭和23年2月撮影。(提供:昭和館)

戦災孤児とは、いうまでもなく戦争による攻撃で肉親を亡くし、ひとりっきりになってしまった未成年者のこと。学童疎開で地方に行っていて、東京に戻ってきてみれば家族が空襲で全滅していた、という子などがそうだ。行くあても、守る者もなく、子供たちはたとえば上野駅の地下道へ流れ着いた。

東京だけでなく空襲を受けた他の都市にもいたし、戦争が起こすあらゆる肉親の死によって孤児になった子たちがいた。遠縁の親族に引き取られてもつらく当たられ、ふたたび放浪せざるをえなかった子も数え切れない。都市をうろついて生きざるを得なかったこの子たちは当時、「浮浪児」と呼ばれた。全員が、戦争孤児、とも言える。

同時代、作家・山田風太郎はその姿を活写している。昭和20年10月の末、彼は上野駅で人々が円陣を組むように集まっているのを見、日記に書きつけている。円のなかには7つか8つくらいの子供が座っていた。群衆の誰かが芋をあげたようで、その子は泣いては食ってを繰り返している。

はじめ猿の子かと思った。長くのびた髪の毛に埃を真っ白にかぶって、地も模様もわからないぼろぼろの着物をまとい、手足は枯木みたいに垢で真っ黒だ。(中略)ときどき芋をくわえたまま、アアーン、アアーン、と悲しげに泣く。涙が埃と垢だらけの頬をつたう。その泣声は、だれかその泣声を聞かせるべき人を意識した烈しいものではない。子供の「お芝居」ではない。(中略)彼はこの何千何万とも知れぬ群衆の中にあって、まさしく孤独を感じているのだ。
(「戦中派不戦日記」山田風太郎 講談社)
 

この子は皆が見る前で新聞紙に排便し、群衆は「嫌悪と微笑を顔に浮かべた」。一人の老婦人は涙を流していた。が、結局は誰もが通り過ぎていった。皆ひとしく、他人を助ける余裕などなかった。食料の生産・輸送はどちらも最悪の状況で、戦争中よりも終戦後のほうが、食糧難は言語に絶する様相を呈していた。子どもたちに残されていたのは、物乞いをするか、ゴミ箱の腐った生ゴミを食べるか、ヤミ市で盗みをするか。さもなくば餓死。自死を選ぶ子もいた。

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