「左翼と距離をとらないとバカ」は時代遅れ《田中康夫・浅田彰対談》

「憂国呆談」第2回(後)
参院選の結果をふまえて行われた田中康夫・浅田彰対談の後編は、共産党の現況、そしてトランプと反知性主義にまで話が広がります。いったい日本はどこへ行く? マスメディアでは絶対に読めない「憂国呆談」をご堪能あれ。

前編中編もあわせてお読みください)

「最悪だが、他よりまし」という政治的知性

田中 「既に自分たちに与えられている権限でここまではやった。更に充実させるにはこの制度の不具合を変えなくては」と具体的に提案すべきなのにね。

繰り返し述べるけど、「身を切る改革」と言いながら贅肉でなく筋肉や神経を切ってしまった。なのに、「記者クラブ」メディアはキャラ立ちしてる彼らを重宝がって視聴率稼ぎに走り、「ナニワ金融道」みたいな香りのする維新に恫喝されたら怖いと思って批判しない。

橋下の物言いは単なる遠吠えでしかないのに、なんだかウクライナ大統領のウォロディミル・ゼレンスキー礼賛と似た思考停止状態だよ。無論、ウラジミール・プーチンの一連の所業を認める訳ではない。(という具合にいちいち但し書きしないとお前はロシアの走狗かとディスって下さる香ばしい方が多いのもイヤハヤだ)。

それにしても僕が気になっているのは、議員会館のホールに映し出されたゼレンスキーにスタンディング・オベイションしちゃった「リベラル覇権主義」な野党の面々だよ。ウクライナ国会に議席を持つ複数の反ゼレンスキー政党に活動停止を一方的に命じたのが彼なのにね。

実は日本共産党の志位和夫が委員長に就任したのは、ウラジミール・プーチンが大統領に就任したのと同じ20世紀最後の2000年。長期政権なんだね。

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浅田 日本共産党にはスターリン主義からの脱却が遅すぎたトラウマがあって、ソ連や中共と違うってことを強調したいんでしょう。党名もCommunist Party of JapanからJapanese Communist Partyに変えて、共産主義インターナショナルの日本支部じゃないってことを強調してるくらいだから。

もちろんわれわれもまずはロシアのプーチン大統領のウクライナ侵攻を非難すべきだと思うけど、他方でロシアをそこまで追い込んで暴発させたアメリカとNATO(北太平洋条約機構)の責任も問うべきだってのは前回言った通り。共産党がそれを言わずしてどうするんだっての。

ウィンストン・チャーチル元英首相が「民主主義は最悪の統治形態だ、これまで時々に試みられてきた他のすべての統治形態を除いては」って言ってる。チャーチルはものすごく好戦的な帝国主義者・白人至上主義者なんで、ヒトラーがあまりに異常だったからチャーチルがヒトラーの絶対悪を見抜いた先見の明のあるリーダーだってことになっちゃった、つまりチャーチルを偉人にしたのがヒトラーの罪悪のひとつだとさえ思うけど、この言葉はさすがに面白いと認めるね。

論理的には「民主主義はいまのところ最高の統治形態だ」と言ってるに等しい。しかしそれを「最高だ」と言わず「最悪だが他よりましだ」と言うレトリックに知性があるわけ。同じことは資本主義についても言える。「アメリカ型の民主主義・資本主義は最高だ」と単純に断定して思考停止しちゃう人には知性がない。「最悪だが他よりまし」でやっていくのが政治的知性なんだよ。

田中 絶え間なく見直し、思考を深め、変わっていかないといけない。政治に限らず経済でも社会でも、それが人間の知性なのにね。

浅田 付け加えると、無謬性を否定するカール・ポパーの哲学はそれと通ずるところがある。彼は科学哲学において「完全な実証はない」ってことを強調するわけ。科学の命題とは反証可能でありながらまだ反証されてない命題であって、いつか反証されるかもしれない、しかし、まさにそのことによってより精度の高い命題に置き換えられていく、それが進歩だ、と。逆に言えば、「完全に正しい命題だ」と言い切ったとたん、それは科学じゃなく宗教になっちゃうわけね。

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政治哲学においても、革命派が社会全体を上から見渡してデザインし直せると考えるのは理性の傲慢だ、むしろ、これまでうまくいってきた部分は保守し、問題が出てきたらそのつどパッチを当てて補修する部分的社会工学にとどめるべきだ、と。そういう観点から、無謬の共産党が上から社会全体を統制する体制を批判し、多数多様な意見に開かれた社会(オープン・ソサエティ)こそ過ちを修正して進歩していけるんだって言うわけね。

実は、あるべき社会の綱領(プログラム)を書くより、提出された綱領の批判(批評・吟味)に徹したマルクス以降、真の左翼は批判と自己批判が原則だったはずで、それが無謬の共産党、無謬の指導者の独裁に転化したためにポパーのような批判を受けることになっちゃったんだけど。

言い換えれば、民主主義社会も、本来は誰も無謬ではありえないって前提のもとで相互批判によって修正を繰り返していくべきものなのに、主権者・納税者の前で政治家や官僚が過ちを認められなくなると「原子力発電所は絶対に安全だ」っていう原子力村の安全神話のようなものに退行しちゃう。

 

繰り返せば、こういうポパーの哲学は20世紀後半の反共産主義の核で、オープン・ソサエティ財団をつくって東欧の民主化に寄与したジョージ・ソロスなんかもポパーに学んだ。しかし、それは「アメリカ型の民主主義・資本主義は最高だ」っていう単純な断定とは正反対のものなんだよ。

田中 「科学を信じて・技術を疑わず」ではなく、「科学を用いて・技術を超える」スタンスが必要なのにね。

相変わらず日本では、フランス革命を「否定」したエドマンド・バーク(英国の政治家で文筆家)は反共の保守政治家、みたいに捉えている浅薄なイデオロギー論者がいるけど、著書『フランス革命についての省察』の中で「人々の革命への要求を先取りするような その結果 人々が革命など必要としなくなるような賢明な政治」を希求したのが彼なんだからね。

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