告げ口、根回し、多数派工作...北条氏の面々による謀略の数々

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第28・29話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第28話「名刀の主」、昨日放送の第29話「ままならぬ玉」をまとめて解説。さまざまな史料や最新の学説を参照しつつ、梶原景時滅亡の背景や、北条氏と比企氏の対立の実相に迫ります。

『鎌倉殿の13人』の第28話では梶原景時の滅亡、第29話では源頼家の後継者をめぐる暗闘が描かれた。鎌倉幕府を守るため、陰謀や紛争を穏便に収めようとする北条義時だったが、御家人たちの権力闘争は激化する一方だった。歴史学の観点から第28・29話のポイントを解説する。

 

梶原景時の滅亡 

「13人の合議制」の成立から半年後の正治元年(1199)10月25日、源頼朝の烏帽子子であった結城朝光が頼朝を追慕して、「忠臣は二君に仕えずというが、頼朝様の御遺言に従って出家しなかった。今となっては後悔している」と御家人たちに語った。

すると27日、北条政子の妹で阿野全成(頼朝の弟)の妻である阿波局が「梶原景時があなたの発言を謀反の表れと頼家様に讒言(ざんげん)し、あなたを討とうとしています」と告げた。 

仰天した結城朝光は朋友の三浦義村に相談した。義村は他の御家人たちに呼びかけて、連名で梶原景時の弾劾状を作成した。翌28日、義村らは大江広元に弾劾状を渡した。広元は「景時の讒訴は問題だが、頼朝様の側近だった者を処罰してよいものだろうか」と逡巡し、事態の平和的解決を模索した。

だが11月10日、和田義盛に強く迫られ、大江広元は弾劾状を源頼家に取り次ぐことを約束した。13日、頼家は景時に弁明を求めたが、景時は一言も抗弁することなく一族郎党を率いて本拠地である相模国一宮(現在の神奈川県寒川町)に退去した。 

この潔い態度が評価されてか、梶原景時は12月9日にいったんは鎌倉に帰還する。けれども和田義盛・三浦義村を中心に評議が重ねられた結果、18日に景時を鎌倉から追放するという処分が決まった。

翌正治2年正月19日夜、景時は子息らを連れて一宮をひそかに離れた。この行動を謀反のための上洛とみなした北条時政・大江広元らは相談の上で、三浦義村らを討伐軍として派遣した。しかし討伐軍が到着する前に、景時一行は駿河国清見関(現在の静岡県静岡市清水区)で現地の武士たちに討たれた(以上、『吾妻鏡』)。 

また甲斐源氏の武田有義(信義の子)は梶原景時と同心して上洛しようとしていたという嫌疑をかけられ、弟の信光の攻撃を受けて逃亡、行方不明となった。『吾妻鏡』によれば、景時は有義を将軍に擁立しようとしていたというが、いささか疑わしい。 

この事件には謎が多い。そもそも梶原景時が本当に結城朝光を讒訴したかどうかも定かではない。

『吾妻鏡』を読む限りでは、この政変に北条時政・義時父子が積極的に関与した徴証はない(弾劾状への署名も確認できない)。表面に出てきているのは、むしろ侍所で梶原景時と主導権争いをしていた和田義盛の方である

だが前述したように、騒動の火付け役となった阿波局は北条政子の妹であり、梶原景時らが襲撃を受けた駿河国の守護は政子の父の時政である。中世史研究者の石井進が推測したように、事件そのものが景時を追い落とすための北条氏の陰謀とも考えられる。

関連記事