生きていく中で、悲しいことやつらいことを体験したことなんて一切ないという人はいないだろう。しんどいことや失敗、落ち込むこととどう向き合いながら、より人生を楽しく生きることができるか。小さな幸せを見つけて笑顔でいる時間を増やせるか。そんなヒントが含まれているのが辻仁成さんのエッセイ『パリの空の下で、息子とぼくの3000日』だ。
これはシングルファーザーとして辻さんが息子さんと生きた証を率直につづった記録で、14歳から18歳までの日記とも言える。離婚したばかりの頃、まだ10歳だった息子さんが涙でぬいぐるみを濡らしていたという記述もある。

辻さんと息子さんの生活に、笑顔が戻るきっかけとなっているのが「食」だ。YouTubeでもその腕を発揮し、料理本も刊行している辻さんが、息子さんと共に食事をしながら、ちょっとしんどいことに向き合ったり、元気をもらったりしている。「食」を中心に本書より抜粋して紹介する第3回は、2020年夏のバカンスの時期、友人の家に泊まっていた息子を辻さんが迎えに行った時のエピソードをお伝えする。

辻仁成インスタグラムより
-AD-

人間に期待しないことが、落胆をしない一番の方法だと思ってた

これは夏の物語だ。
その時、ぼくは人間に期待をしないことが、落胆をしない一番の方法だと思っていた。
でも、息子はぼくとは根本から異なる考え方を持っていた。
「パパ、人間は期待していいんだよ」と彼は言った。

***

某月某日、ちょっと寝坊した。起きたら、チェックアウトの時間だった。ホテルを出て、大聖堂を拝んで、運河沿いを歩き、カフェテラスで朝昼兼用の朝ごはん、クロワッサン、パンオショコラ、カフェオレ、オレンジジュースを食べてから、出発することにした。

Photo by iStock
-AD-

息子に、「これから君のいる村まで迎えに行くけど、いいかな?」とメッセージを送った。
「ウイ」と一言返事が戻ってきた。
ずいぶんと長いこと、田舎道を走った。ナビが「目的地が近づいています」と教えてくれた。
ほんとうに何もない、田舎の村だった。周囲は牧場……。カフェもスーパーもほんとうに何もない。牛とか羊しかいない土地である。「目的地に到着しました」と機械の女性の声が教えてくれたので、ぼくは車を停めた。
小さな道のつきあたりに大草原の家があった。

Photo by iStock

豪華な家ではない、まさに古い家を自分たちでこつこつと改造した手作りの家である。柵で囲まれており、覗くと庭があった。中央に木が二本聳えていて、そのあいだにハンモックがつるされてあった。

若い子たちが椅子に座って思い思いの恰好で本を読んだり、話し込んだり、くつろいでいた。

まるで絵画のような不思議な世界であった。奥の方で、息子が掃除をしていた。ちゃんと家のことやってるんだ、と思うと微笑みがこぼれた。

毎日何をしていたというのだろう、変なやつだ。