2022.08.05

怪しくも魅惑的な日々を送った航空参謀 宮子実の半生

知られざる「同期トップ」たちの戦後史
「陸軍大学校卒業者人名表」に記載された同期内トップたち。彼らは必ずしも「有名人」ではありませんでした。今回の記事では、そんな「無名」の同期トップに注目し、知られざる彼らの戦後に迫ります。

関係者の証言と資料を元に昭和を生きた参謀たちの実像に迫った『昭和の参謀』を執筆した前田啓介氏のオリジナル論考をご紹介します。

知られざる「同期トップ」たち

陸軍大学校卒業者人名表について紹介した記事の最後で「陸軍大学校卒業者人名表」を見ると、同期内のトップに位置づけられた参謀が、いわゆる有名人でないケースが多く、戦後の生き方も知られていないと書いた。

この貴重な史料を残した池田純久は陸軍士官学校28期で、同期内の序列は上から2番目だった。では、トップは何者かと言うと、白銀重二という人物だ。名字は濁らず、しろかね、名前はちょうじと読む。私は初めて知ったが、白銀と言われて、すぐに反応できるとすれば、相当、軍人のことに詳しい人なのではないか。池田の娘、知加恵さんによると、白銀は28期の“二代目の会”には、“初代”の最後の一人として出席していたという。

新聞には、ある時代まで、将官クラスであれば概ね、訃報記事が掲載されていた。白銀の場合も例外ではなく、朝日新聞、毎日新聞、読売新聞ともに、訃報記事を載せている。共通するのは、1989年11月20日に脳梗塞のため、山口県徳山市内の病院で死去したことと、元陸軍中将で、94歳だったことだ。朝日新聞と読売新聞には第7、第9飛行師団長の軍歴が記されていた。

この経歴からも分かるように、白銀は航空兵科の軍人だが、もともと歩兵科で、日中戦争後、航空兵科に転じていた。朝日新聞と読売新聞の記事にあった第9飛行師団長は、終戦時の立場だった。これらは、歴史家の秦郁彦さんが編纂した『日本陸軍総合事典』に教えてもらった。だが、この驚異的に浩瀚な本にも、戦後の白銀の人生はというと、
「21・7復員」
つまり、昭和21年(1946年)7月に復員したと書かれているに過ぎない。
上記の新聞記事でも、戦後の白銀の人生をうかがい知ることができるのは、朝日新聞の「山口県軍恩連盟顧問」くらいだ。

結局、白銀元陸軍中将も、その事例の一つに連なるわけだが、参謀の戦後の生き方が知られていないことが、本書執筆の動機の一つとなった。しかし、それにしても、あまりに知られていないことが、逆に強く興味をかきたてた。

辻政信の影に隠れた”ナンバー1”「宮子実」

というわけで、今回は辻政信の陸士同期(36期)を見ていきたい。辻は、前回の瀬島と並び、おそらく参謀の中で最も著名な一人だろう。だが、その辻の人名表の序列は、皇族である閑院宮春仁王を除き、上から3番目だ。では、この期のトップとなったのは何者なのか。あまりに有名な同期生の影に隠れる形となった“ナンバー1”の軍人の姿を追ってみよう。

1位となったのは、宮子実という人物だ。「みやこ」ではなく「みやし」と読む。出身は奇しくも辻と一緒の石川県だ。陸士の卒業順位は、本人曰く約400人中36位だったが、陸大(47期)では、やはり宮子に言わせると、「第十位以内の成績をおさめて」卒業している。この段階の辻と比較すると、辻は、陸軍士官学校は首席、陸大(43期)卒業順位は首席ではなかったものの恩賜の軍刀組である3位だった。となると、順当に行けば、辻の方が序列は上のはずだ。だが、そうはならなかった。

写真:池田知加恵さん提供

辻の順位が下がったのは、陸軍士官学校事件やノモンハン事件などが影響している可能性はある。ただ、宮子が1位であったことには、辻の順位が下がったことに加え、何か理由があったはずだ。その手がかりを求め、非売品となっている『宮子実遺稿集』にあたってみた。

宮子は1984年秋、自動車事故によって亡くなる。これはその死後、宮子の残した原稿や同期生の追悼文などをもとに、息子の章さんが編んだものだ。先述した陸士、陸大の卒業時の順位についても、同書に収録された宮子自身の回想記から引用している。

1903年1月に生まれた宮子は、同郷の辻と同じく小学校高等科から名古屋陸軍幼年学校に入学する。幼年学校ではロシア語を修習した。その後はおきまりのルートで、陸軍中央幼年学校本科、陸軍士官学校と進む。士官学校時代はやはりロシア語を学んでいる。もともと、砲兵科だったが、航空兵科が独立する際、宮子自身は希望していなかったというが、上官によって転科させられた。

自らの意思ではなかったものの、1926年には所沢飛行学校に入校し、操縦技術を学んだ。回想記を読むと、「コバルト色の空にあこがれ」とか、「三度の食事より空を好む」などパイロットらしい表現が目立つ。

所沢飛行学校を「五、六位」で卒業し、操縦将校となった。ちなみに、この時、首席だったのは、「加藤隼戦闘隊」で知られ、戦死後は軍神として崇められた加藤建夫だった。

1932年2度目の受験で陸大に入学。3年後の卒業時には、先の本人談のごとく、10位以内の好成績を修めている。その後は、飛行第七連隊中隊長として部隊指揮官を経験し、1937年には、参謀本部第三課の航空班の参謀として航空作戦の立案にかかわっている。ノモンハン事件時には、関東軍参謀部の第一課で航空主任参謀で、「航空に関する限り総て私の立案責任であった」と回想している。

さらに、これ以降の経歴を時系列的に追っていくと、第三飛行集団作戦主任参謀として、先の大戦ではマレーやスマトラ、ジャワ作戦を指導。陸軍航空士官学校の生徒隊長として航空士官の養成にも関わった。その後、航空本部総務課長兼大本営参謀となり、次いで1945年4月に航空総軍が編成されると、作戦課長に就き、本土決戦に備えた。

同期生である篠尾正明は1986年4月に刊行された同期会誌『三六會誌』で、宮子を操縦もできる参謀として、「日本陸軍航空の運用の中核者」だったと評している。
航空士官学校時代の教え子が、宮子のことを回想しているのだが、その仇名が「ウルフ」であったと明かしている。確かに遺稿集に掲載された宮子の戦後に写された写真を見ると、年を取っても、眼光の鋭さが残っている。

「ドイツ風の前立の立った軍帽の庇の下から、ウルフの異名の所以である鋭い眼差しで」生徒に叱声を浴びせることはあったが、時に上の命令にも筋を曲げず、生徒をかばう姿に、生徒たちは「やったぜ、ウルフ」と喝采を送ったこともあった。そんな厳しいながらも、敬意を持たれていた軍人時代の宮子をこの教え子は述懐している。

もっとも、その思想もなかなか過激であり、航空本部総務課長兼大本営参謀時代、宮子が起死回生の切り札として立案したのが、「全機特攻」であり、時の本部長である阿南惟幾に対し決裁を仰ぐと同時に、「最後の一機である閣下の特攻機は、私に操縦させて下さいませんか」と言ったというから、いわゆる“軍人精神”が身に付いた人物だったのだろう。

 

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