2022.08.05

怪しくも魅惑的な日々を送った航空参謀 宮子実の半生

知られざる「同期トップ」たちの戦後史
前田 啓介 プロフィール

宮子の知られざる戦後

随分説明が長くなってしまったが、宮子が人名表の序列1位に位置づけられたことの理由には、航空が重視される時代において、宮子が航空畑のエリートだったことが大きく作用しているのではないかと考えられる。

それを補強するのが、前回取り上げた陸軍の軍制の権威、元陸軍少将の山崎正男の講話だ。その中で、航空の話題になった際、山崎は「同じ少尉でも航空兵少尉は値打ちが上になっちゃうな(笑)」と語り、聞き手の一人で輜重兵科の高橋登志郎(陸士55期)がこう応じている。

「事実、航空は上なんですよ。われわれの場合は航空士官学校出た人間はみんな最右翼なんですから。五十五期のなかでは地上の恩賜が航空士官学校のビリッケツよりか下になっちゃってます」

陸士55期は陸大を出ていないので、高橋が念頭に置いているのは、停年名簿のことだろう。前回のくり返しになるが、停年名簿から陸大出身者だけを抜き出したのが、「陸軍大学校卒業者人名表」だ。

この航空参謀としての経歴のほかにもう一つ、軍人時代の宮子の経歴で特記すべきは、1939年から約1年間、ソ連駐在大使館付武官補佐官として、モスクワに赴任し、情報勤務に服したことだ。ゲーペーウーの尾行をかわし、監視の目をすり抜け、軍事情報を集め、暗号にして参謀本部に送っていた。

宮子について興味深いのは、戦後の生き方だ。『宮子実遺稿集』には、宮子の戦後の人生が怪しくも魅惑的な日々が淡々と綴られている。

遺稿集に従って叙述していくと、終戦時の陸軍参謀次長であった河辺虎四郎から戦史編纂の担当になることを持ちかけられ、その業務に関わった。

そして、1946年4月には、旧部下を集め、「海龍社」なる漁業の会社を静岡県の伊東で設立している。3・5トンの「飛龍丸」という木造船で漁業を開始したものの、台風によって難破してしまう。さらに東京の新橋駅前のマーケットでハムやベーコンを売る店を経営したが、類焼するという被害に見舞われている。たちまち社運は傾くが、1948年から翌年までに、あらたに船を建造し、他からも船をチャーター、宮子本人も船に乗り込み、本格的に漁業に取り組んだ。業績は好調であったが、内部の対立などで、1949年に金沢へと帰郷し、以降は生命保険の営業を行った。

その後、1953年、「中国事情調査会」という組織の会長に就任し、1960年から10年間は世界政経調査会で第二部長という役職に就いている。

と、つらつら紹介してきたが、昭和史に関心のある読者ならば、何となくきな臭さを感じるのではないだろうか。

まず出だしの河辺虎四郎だ。慶応大教授の井上正也さんの論文「吉田茂の中国『逆浸透』構想」によれば、1948年末、連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)参謀第2部(G2)の部長を務めたウィロビー少将は、河辺を通じて、旧軍関係者を集めた諜報組織を設立させた。この「河辺機関」として知られる組織には、吉田茂の軍事顧問であり、終戦直後から国民党軍と米占領軍、双方と諜報面で協力関係のあった辰巳栄一や最後の陸軍大臣下村定も中心メンバーとして加わった。

河辺機関について、戦前戦中の作戦参謀で、戦後は自衛隊の幹部となった高山信武は『服部卓四郎と辻政信』の中で、辰巳から次のように聞いている。

この機関の任務は、終戦時における各地方の治安状況を調査するとともに、とくにシベリア方面からの引揚者による共産化活動や対ソ情報の収集等、当時の国内治安維持のための情報活動が主体であった。

井上論文によれば、河辺機関は1952年12月、米軍から次年度の資金提供の打ち切りを通告され、解散を決定した。

河辺機関を巡る話はこれで終わらない。1952年、内閣総理大臣官房に新たに調査室(内調)が設置された。その初代室長となった村井順から相談を受ける立場にあった辰巳は、河辺機関に所属していた諜報員を内調にスカウトしていた。

それは何のためか。再び井上論文によると、1953年3月19日付のCIA文書には、内調がこの時期、中国からの引き揚げ者を利用する「最高機密計画」を立案していたことが記されていた。その計画の中心は中国からの引き揚げ者の尋問プログラムだった。

残念ながら、宮子の戦後のこれらの活動の詳細を知る資料は限られている。『宮子実遺稿集』にも、諜報活動についての具体的な記述はない。

手がかりを求める中で、産経新聞の記者、湯浅博さんの著書『歴史に消えた参謀 吉田茂の軍事顧問 辰巳栄一』に、井上論文にある中国からの引き揚げ者の尋問プログラムに関し、こんな記述を見つけた。

邦人引き揚げ者からの情報は、中国の国内事情を知る上で不可欠であった。二十七年六月、辰巳は元大本営の情報参謀ら旧軍人の七人を選び出し、航空総軍参謀だった宮子実元大佐を責任者とした。

そして宮子を責任者とする組織の名前を「陸隣会」とした。また、辰巳は日記に、この組織のことを「宮子機関」と記していたという。

確かに、『宮子実遺稿集』には、1954年に箱根湯本で辰巳と一緒に写った写真が載っていた。どうやら、キーパーソンは辰巳であるらしかった。湯浅さんの本に導かれ、辰巳の資料が保存されている東京大学大学院法学政治学研究科附属近代日本法政史料センターに向かった。

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