史料によって全然違う!? 比企能員の乱の真相に迫る

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第30・31話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第30話「全成の確率」、昨日放送の第31話「諦めの悪い男」をまとめて解説。さまざまな史料を参照しながら、阿野全成の死や、比企能員の乱の真相に迫ります。

『鎌倉殿の13人』の第30話では阿野全成の死、第31話では比企能員の死が描かれた。謀略渦巻く鎌倉で、軍事衝突を何とか避けようとしていた北条義時が、ついに流血を辞さぬ決意を固め、権謀術数の限りを尽くす。「頼朝様は正しかった」と語る義時の横顔に、かつての純朴な青年の面影はない。歴史学の観点から第30・31話のポイントを解説する。 

阿野全成の死 

梶原景時滅亡後、北条氏と比企氏の対立は激しさを増していった。『鎌倉殿の13人』では、源頼家と比企能員の間に溝が生じているように描かれていたが、現実には頼家は比企氏と提携していたと考えられる。 

前回説明したように、この時期、北条時政は遠江守に任官するなど、勢力を伸ばしていた。けれども鎌倉幕府の最高権力者はあくまで鎌倉殿たる源頼家であり、時政が頼家を排除して幕政を牛耳ることは不可能であった。頼家は建仁2年(1202)7月、従二位に叙され、征夷大将軍に宣下された(『吾妻鏡』建仁二年八月二日条)。これによって頼家の権威は一層上昇した。

そして頼家・比企氏は、北条氏の勢力伸長に対して反撃を行っている。それが阿野全成事件である。

阿野全成は源頼朝の異母弟・義経の同母兄で、北条時政の娘である阿波局(義時の先妻・泰時の母である阿波局とは別人)を娶っていた。つまり時政の娘婿である。そして全成・阿波局は千幡(頼家の弟)の乳父・乳母でもあった。時政・全成らは頼家に代わって千幡を将軍にする陰謀をめぐらしていたと思われる。

源頼朝・北条義時関係系図〈本書『頼朝と義時』p.15 より〉

しかし建仁3年5月、源頼家は先手を打って軍勢を派遣し、阿野全成を謀反人として捕らえ、常陸国に配流した。6月には全成は下野国で八田知家に誅殺され、その子頼全(らいぜん)も翌7月16日に京都で殺された(以上、『吾妻鏡』)。 

源頼家は阿波局も逮捕しようとしたが、頼家の実母にして阿波局の姉である北条政子によって阻まれた(『吾妻鏡』建仁三年五月二十日条)。しかしながら、千幡の後ろ盾であった全成が謀反の罪で滅ぼされたことは、千幡の立場を著しく悪化させた。頼家が得点を稼いだと言えよう。また八田知家が全成を誅殺していることから、知家を比企派に引き込むことに成功したと推察される。

源頼家がこのまま年齢を重ねていけば、若い頼家を後見するという名目で幕政に関与している北条政子の影響力は次第に低下していく。ひいては北条氏の権力が後退することになる。頼家・比企氏の有利は明白である。

ところが同年7月下旬、源頼家が重病を患い、8月末には危篤状態に陥った(『吾妻鏡』)。年若い頼家の急病は、関係者全てにとって予想外だった。そして翌9月には比企氏の変が起こる。 

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