2022.08.14

沖縄戦を戦った合理主義者、八原博通はどんな戦後を送ったのか?

捕虜となった参謀の戦後とは
「内気だが頭脳明晰」そう評された参謀八原博通は、沖縄戦での組織的抵抗が終了した後に米軍に捕縛され、捕虜として終戦を迎えます。「生きて虜囚の辱めを受けず」という教えが根強い中、終戦後に本土へと帰還した八原は後にどんな生涯を送ったのでしょうか。

関係者の証言と資料を元に、前田啓介氏が昭和を生きた参謀たちの実像に迫った『昭和の参謀』から、「第7章 八原博通―合理主義者の戦いと沈黙」を抜粋してお届けします。

本土への帰還

1945年(昭和20年)12月末、八原博通を含む収容所内の軍人たちに送還命令が出された。1946年(昭和21年)の元旦は船の上で迎えた。1月7日、船が浦賀港に到着した。そこで復員した参謀や連隊長らは第一復員省、もとの陸軍省に出頭しなければならないと言われたため、八原はそのまま市ヶ谷にある第一復員省に向かった。復員の報告を済ませた八原には会っておきたい人がいた。それは人事局員時代、人事局長だった額田坦だった。八原は額田に自分の生還のいきさつを話しておきたいと思っていた。

「沖縄を攻略されながら、おめおめと生還いたしまして面目もありません」と切り出し、生還の経緯を話す八原に、額田は穏やかな調子で応答した。八原にはまだ聞いておきたいことがあったが、額田が中座したため、そのまま待つことにした。しばらくして額田は戻ってきたが、「食後、ゆっくり話すことにしよう」と、再び別の部屋に行ってしまった。その部屋からは、昼食を取りながらほかの職員と話をする額田の声が聞こえてきた。

「今日は八原からPW(筆者註:POW、捕虜)の話を聞いた」

額田がそう言うと、職員の笑い声が響いた。八原の胸に突き刺さるものがあった。その後、再び額田と会話を交わしたものの、白々しい気持ちになっていた八原は、車で送るという額田の好意を受け取らず、そのまま第一復員省を辞した(稲垣武『沖縄 悲遇の作戦』)。

八原が米子の生家に帰ったのは、1月12日夜のことだった。生家には戦中から八原の家族も疎開していた。8畳の部屋を一室借り、家族7人が暮らしていた。

八原は本土に帰還しても、家族には手紙も電報も出さなかった。筆まめで家族思いの八原には珍しいことである。ジャーナリストの稲垣武は「よほど内心の懊悩(おうのう)がはげしかったのだろう」と推測している(同前)。

日本軍は沖縄で米軍が圧倒的物量のもと制空権と制海権を掌握したうえで、精鋭の海兵隊、陸軍など7個師団と戦った。日本軍は戦死者約6万5000人(一般住民は約10万人)という大きな被害を出しながらも、米軍にも死傷者約4万人の損害を与えた。八原の作戦指導について歴史学者の伊藤之雄(いとうゆきお)は「日本軍が制空権・制海権を奪われた状況下で、圧倒的に優勢なアメリカ軍に対し、ペリリューや硫黄島の戦いでも確認された妥当なものといえる」と評価する(伊藤之雄『東久邇宮の太平洋戦争と戦後』)。

沖縄戦を振り返った米軍の記録からも本土決戦に備え、少しでも多くの被害を米軍に強(し)いるという目的に沿った八原の判断は間違っていなかったことがうかがえる。だが、その意図が大本営に対してだけではなく、第三十二軍内でも十分共有できていなかったという憾(うら)みは残った。

そもそも八原の考えを正確に理解したとしても、大本営がそれを受け入れることはなかっただろう。たとえば5月の総攻撃失敗後の5月6日の『機密戦争日誌』には「一旦上陸を許さば之を撃攘(げきじょう)は殆(ほと)んと不可能 洋上撃滅思想への徹底により不可能を可能ならしめさるへからず これ本土決戦への覚悟なり」と記されているくらいだからである。

第三十二軍の航空参謀で、戦況報告のために組織的戦闘が終結する前に、沖縄から本土へ脱出した神直道(じんなおみち)から沖縄戦の状況を聞いた東久邇宮稔彦王は、軍刀組には「意志堅固」でなく積極的でない人が多いとし、将来陸大の精神教育を重視すべきと述べたという(伊藤『東久邇宮の太平洋戦争と戦後』)。神は航空重視の立場から八原の作戦を批判していた人物で、東久邇宮への注進にはバイアスがかかっている可能性はあるが、皇族軍人である東久邇宮の考えは当時の軍において必ずしも特異なものではなかっただろう。

八原の合理的な判断が、情緒的で精神的な積極主義の前に水泡に帰したのは不幸にも必然だったのかもしれない。

八原の参謀としての人生は終わった。だがこの時八原は43歳。まだ男盛りであった。

 

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