今は亡き祖父と孫の「共著」

降伏の時 元釜石捕虜収容所長から孫への遺言』という書籍は、2022年4月、岩手日報社から刊行されたノンフィクション。本書の著者は「稲木誠/小暮聡子」となっている。

稲木誠さんは『ニューズウィーク日本版』記者の小暮さんの母方の祖父だ。小暮さんが「大好きなおじいちゃん」がBC級戦犯として巣鴨プリズンに拘禁されていたことを知ったのは、高校生のときのことだった。生前は記者だった稲木さんが『週刊時事』(時事通信社)に連載した「フックさんからの手紙」という手記を、母親から渡されたのだ。

第二次世界大戦中、稲木さんは釜石市にあった連合軍捕虜収容所の所長をつとめていた。敗戦の色濃い日本軍で、捕虜の体調管理に尽力をしながら、なぜか戦犯として有罪にされ、望みの教職にも就けずに失意のどん底にいたこと、終戦から30年後、元捕虜だったオランダ人のフックさんから釜石市に届けられた手紙により、稲木さんが戦犯どころか誠実で素晴らしい所長だったことが判明した。「フックさんからの手紙」には、稲木さんとフックさんとの心の通った文通の内容が綴られていた。

それからさらに47年の時が経った今年、「フックさんからの手紙」も収録した、「祖父と孫の共著」が刊行となったのである。

本書には、「降伏の時」と題した稲木さんの終戦直後ひと月を克明に描いたノンフィクションと「フックさんからの手紙」が収録されている。そしてこれらの祖父の原稿を読み、記者になった小暮さんがライフワークとして戦時中の真実を求め続けてきた軌跡も書かれている。元捕虜やその遺族を探し、話を聞き、今もなお続いている「国境を越えた交流」は、戦争が人の心を深く傷つける地獄であること、しかし同じ人間としてそれぞれの立場を知っていくことの重要さを教えてくれる。それはまさに亡き祖父から孫への遺言でもあるのだろう。

稲木誠さんが、小暮さんや多くの人に伝えたかったことを考える意味でも、本企画では『降伏の時』より「祖父」と「孫」それぞれの視点を伝える。前編「戦犯として巣鴨プリズン拘置…元捕虜収容所長を救った、オランダからの「天の声」」では、「フックさんからの手紙」の一部を抜粋紹介した。後編では、小暮聡子さんの手記を抜粋し、「必ず再会しよう」と文通をしながらもその約束が叶わなかった祖父とフックさんとの再会を、孫の世代で叶えた奇跡のような現実をお伝えする。

以下、『降伏の時 元釜石捕虜収容所長から孫への遺言』より小暮さん執筆の第4章を一部抜粋掲載にてお届けする。

小暮さんの祖父・稲木誠さん 写真提供/小暮聡子
稲木誠(いなき・まこと) 1916年 栃木県宇都宮市生まれ。1941年 広島文理科大学卒。1944年4月~1945年8月 陸軍少尉として岩手県釜石市の連合軍捕虜収容所長。1945年11月~1951年4月まで巣鴨プリズンに拘置される。1952年~1973年 時事通信社勤務。1988年に71歳で死去。著書に『茨の冠』『巣鴨プリズン二〇〇〇日』(いずれもペンネーム「中山喜代平」)がある。
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2022年1月のメッセージ

2022年1月2日。栃木県宇都宮市の実家で正月休みを過ごしていた私のスマートフォンに、1通のメッセージが届いた。

「ハロー、サトコ! 2022年が、君と家族の皆さんにとって素晴らしいものになりますように。安全に過ごすことが重要ですよ。新型コロナウイルスが私たちの生活や世界からなくなることを心から祈ります。新年が昨年よりも平和で、幸運に恵まれ、より良い年になることを願っています」 

英語でそう書かれたメッセージの送り主は、オランダに住むポール・ファン・デル・フックさん。あの「フックさん」の息子さんだ。 

フックさんと祖父・稲木誠の文通は、祖父が1988年1月11 日に71歳で亡くなるまで12年続いた。フックさんは1991年に81歳で他界しており、1988年に祖父の死を知らせる手紙を祖父の息子の名前でフックさんに送り、フックさんのご家族からフックさんの訃報が1991年に届いて以降、オランダとの連絡は長いあいだ途絶えていた。しかし2014年、ひょんなことから私とポールさんのやりとりが始まり、ことあるごとにメールを交わすようになった。私は現在、ポールさんをはじめ釜石収容所にいた元捕虜3人のご家族と交流を続けている。

左は、稲木さんが戦犯となるきっかけとなった元捕虜・グレイディ氏の証言、右がその汚名を返上するきっかけとなったフックさんの証言。フックさんひとりではなく、小暮さんは多くの「元捕虜」からも「あなたのおじいさんは素晴らしい人だった」との証言を得た 写真提供/小暮聡子