カルト叩きだけで問題は解決しない…私たちが忘れているこの国の過去

あなたを駆動する「物語」について20

再び耳目を集めている統一教会。「なぜまたカルトに不意打ちを喰らうのか」と思われた向きも多かろう。しかし、日本の近代を振り返ってみると、私たちが忘れてしまったある重大な事実が蘇ってくるーー。作家・赤坂真理さんの渾身の論考です。

彼女をカルトに向かわせたもの

ーー8月15日に捧げる。

最初にわたしの立場としてはっきりさせておきたいのは、カルト(宗教カルト)だけがカルトではなく、人は宗教カルトによってのみ生活困窮したり、人生破綻したり、他人の人生を破壊したりするのではないということだ。

もし、統一教会に入れ込まなかったとしたら、山上徹也容疑者の母親は、別のものにはまったはずだ。

関係性、恋愛、ギャンブル、アルコール、薬物、暴力、自傷、食べ吐き、支配被支配、自分や家族の財産をリスクにさらすような投資、あるいはもっとわかりにくい何か。なんでも。

カルトの問題は、当事者の心への作用においては、宗教の枠で考えても仕方ないところがある。

彼女をカルトへと向かわせたのは心の飢えであり、それがある限りは、何かで満たされることを必要とする。そう、満たされるために宗教へと向かった。破滅しようとして、誰かを破滅させようとして、したことではない。

どんなに不合理に見えても、どんなにひどいものに見えても、本人は、満たされたくて、よくなろうとして、したことだ。また、そのことと、それによって周りが被害を受けたことともまた、別である。

なぜ、ある人はハマり、別の人はハマらないのか。それをして、ハマった人を異常者呼ばわりするのもちがうと思える。

誰かはハマり、別の人はハマらない、それこそは、「多様性」なのだろうと思う。別の人は別のことにハマってしまうのかもしれない。すべての人が同じものにハマらないからこそ人類が一つのことで絶滅しないよう保たれているのかもしれない。

 

カルトは、依存症の一つ

カルトは、一面においては、アディクション(依存症)の一つと考えたほうがいいとわたしは思っている。

アディクション(依存症)とは、特別な病気状態ではなく、「とらわれ」の状態であり、その対象はなんでもありうる。

何か特定の対象から心が離れなくなってしまうこと。そのことばかり考えてしまうこと。それにほとんどの時間とエネルギーを持って行かれてしまうこと。そこから離れようとしたならば、そのことにも1日のほとんどの時間とエネルギーを使ってしまうようなこと。「心を心でどうにもできない状態」だともわたしは思っている。

しかし最初は、そこにものすごい救済感があったはずなのだ。アルコールでも食べ吐きでも自傷でもなんでもそうだ。だからこそハマる。すべては、よくなろうとしてしたことだ。

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