2022.09.12

英語がヘゲモニー言語となった現代だから、
英語を教え・学ぶ意義や目的を問い直したい

 英語は世界のヘゲモニー(覇権)言語として、君臨している。そしてグローバル化の波はとどまるところを知らない。英語を母語とする人々と英語を学ばなければならない人々の格差は広がるばかりだ。
私たち日本人の英語学習は、19世紀の英国を中核とする近代世界システムのなかで、日本がおかれた半周辺的・従属的な地位から余儀なくされた。開国以来ずっと続いている、欧化と国粋、英語への憧憬と嫌悪という日本人の矛盾した感情の根底には、何があるのか? 改めて英語を学ぶことを問い直したい。
(※本稿は江利川春雄『英語教育論争史』を一部再編集の上、紹介しています)

グローバル化と英語のヘゲモニー言語化

一九八九(平成元)年一一月にベルリンの壁が崩壊、一九九一年一二月にはソビエト連邦までもが崩壊した。
こうして東ヨーロッパなどの社会主義体制は連鎖的に瓦解し、アメリカを中心とする資本主義の市場が旧社会主義圏にまで拡大した。おりからのインターネットによる地球規模の情報通信ネットワークの整備と相まって、いわゆる「グローバル化」の時代を迎えた。
こうした世界体制の変動によって、英語はヘゲモニー(覇権)言語としての地位を一段と高めた。
それは英語以外の言語を母語とする人々に英語学習を余儀なくさせ、多大な負担を強いることになった。それとともに、英語が自分たちの言語や文化を侵略しているのではないかとする危機感と反発を呼び起こした。そこから「英語帝国主義」という批判的な言説が生まれ、英語が使えれば便利だとする肯定論者との間に論争を引き起こした。
もちろん言語を使うのは人間だから、言語帝国主義は本質的には人間と人間、民族と民族との関係なのだが、その力関係が言語に現れるため、あたかも言語と言語の関係であるかのように一種の物象化を引き起こすのである。

英語への憧憬と嫌悪という矛盾した感情の正体

英語などの強大な言語のヘゲモニーは、植民地支配のような軍事的・暴力的な形態を伴う場合もあるが、権力関係を内部に潜ませつつも、自発的な外国語学習という形態をとる場合が一般的である。
日本人の英語学習は、一九世紀の英国を中核とする近代世界システムにおける日本の半周辺的・従属的な地位から余儀なくされたものである。ヘゲモニー国家の英語を学ぶことで国民国家の形成を加速し、自立を図るという日本の国家戦略は、欧化と国粋、英語への憧憬と嫌悪という矛盾した感情を日本人の間に醸成し続けた。

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英語を教え、学ぶ意味への新たなる疑問

英語は欧化の象徴であり、国粋が強まる時期には攻撃の矢面に立たされた。それによって英語存廃論争が繰り返し引き起こされた。英語帝国主義論は英語の支配的な側面をいっそう強調するが、根は英語縮廃論と同じなのだろうか。
もしも英語が他の言語や文化を破壊し、絶滅に追いやるとしたら、学校教育で英語を教える意義そのものが問われるのではないか。英語教育を廃止しないにしても、精神の植民地化を招かないよう、教材内容や教え方に注意が必要なのではないか。いや、そんな面倒なことは考えずに、英語は世界共通語なのだからスキルを磨けばいいのだ。
などなど、英語帝国主義論争は英語を教え・学ぶ意義や目的を直接的に問い直すことになるのである。

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