頼家死す...!北条政子は「我が子を殺した冷酷な母親」なのか??

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第32・33話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第32話「災いの種」、昨日放送の第33話「修善寺」をまとめて解説。さまざまな史料や最新の学説を参照しながら、源頼家追放から暗殺までの一連の流れや、頼家の母・北条政子の動向に迫ります。また、鎌倉幕府の初代執権が北条時政ではなく、実は「あの人物」だったのではないか...?という驚きの新説も紹介します。

『鎌倉殿の13人』の第32話では北条氏らによる源頼家の追放、第33話では源頼家の死が描かれた。幼子の命をも奪い数多の屍の上に北条氏の覇権を築いた北条義時だったが、その代償は大きかった。歴史学の観点から第32・33話のポイントを解説する。 

源頼家の失脚

建仁3年(1203)9月5日、意識を取り戻した源頼家は一幡と比企能員の死を知り激怒し、北条時政の討伐を和田義盛・仁田忠常に命じた。けれども義盛が北条時政に通報したため失敗し、7日には政子の命により頼家は出家させられた。

なお、対応をためらっていた仁田忠常は6日に北条派の加藤景廉(かげかど)に誅殺された。頼家は29日には伊豆の修善寺に護送、幽閉された。そして翌元久元年(1204)7月18日、頼家は修善寺で亡くなった。23歳であった。 

以上は『吾妻鏡』の記述であるが、慈円が記した歴史書『愚管抄』では、源頼家の回復後の展開が『吾妻鏡』と微妙に異なる。病気が癒えた頼家は事件を聞いて激怒、太刀を手に立ち上がったが、北条政子が病み上がりで力の入らない我が子を押さえ付け、修禅寺に押し込めてしまった。11月になって一幡は捕らえられ、北条義時の家人に刺し殺されたという。また頼家も、翌年7月18日に北条氏の刺客によって修善寺で暗殺された。 

まず源頼家出家の時期が、『吾妻鏡』と『愚管抄』では異なるが、一幡による鎌倉殿継承が決まって安心した頼家が(比企氏滅亡前の)8月30日に出家していたという『愚管抄』の記述の方が正しいだろう。この時代、極楽往生を願って臨終の直前に出家することはしばしば見られる。

頼家の病状は非常に悪く、誰もがその死を予期していたはずだ。『吾妻鏡』が比企氏滅亡後に出家したと記すのは、つじつま合わせのためと考えられる。頼家が現世への執着を捨てて一心不乱に極楽往生を願っていたとすると、頼家が比企能員を呼び寄せて北条氏討伐を企んだという『吾妻鏡』の筋書きが説得力を失うからである。 

そして源頼家の死についても、『愚管抄』が真相を伝えているだろう。北条氏による幕府掌握を正当化する立場の『吾妻鏡』が、北条氏の関与に言及することはあり得ない。 

関連記事