2022.09.14

すべてはブラジル珈琲を広めるため…
日本コーヒー史に残る伝説の喫茶店「カフェーパウリスタ」

日本にコーヒー文化を根づかせた店
1911年、東京・銀座に開店した喫茶店「カフェーパウリスタ」。
純ブラジル豆で淹れられるそのコーヒーは、一杯五銭という格安で人々に振る舞われ、日本にコーヒー文化が生まれるきっかけを作ったとも言われる。
はたしてそこにはどのような経営思想があったのか。プランタンが人びとに与えた影響とはどのようなものだったのか。
今でも銀座に店舗を構える喫茶店「カフェーパウリスタ」を紹介しよう。
(※本稿は奥山儀八郎『日本の珈琲』を一部再編集の上、紹介しています)

人びとをコーヒー通にした伝説の店

古い珈琲通は、カフェー・パウリスタの名を忘れる事はできない。それは大正の始ころから震災前のこと、東京有楽町、鍋町(今の資生堂の裏)、その他全国に十九の珈琲店を出した。一杯五銭(ドーナツ附)という純ブラジル豆の珈琲であった。

そして今日五十歳代の終りから六十歳代の古い珈琲マニアは多かれ少なかれこのパウリスタで珈琲の洗礼を受けて珈琲通となったものだ。

本来珈琲は後をひくと云う魔的魅力のある飲物だが、このパウリスタが利益を目的とせぬ宣伝第一主義の経営で、多くのコーヒー飲みを作り出さなかったら、今日市内いたる所、六千~八千軒の珈琲店に成長しなかったことと思う。

ブラジル政府から提供された豆

パウリスタの創立者、水野竜はブラジルの邦人珈琲園開拓の大恩人であって、ブラジル政府がその報賞の意味で、年間千五百俵の珈琲豆の無償給与を受けて、日本でブラジル珈琲の宣伝を委託された人である。

この人は商人でなく、国士風の人であって、儲かれば自分の懐へ入れても差支えない立場にいた人なのに、ブラジル政府から宣伝のために無料で貰った豆だからというので殆どタダ同様に売り出したのである。

photo by iStock

移民たちの手によるブラジル珈琲園

水野竜は初め、皇国殖民合資会社の社長として移民事業を行なっていたものだが、明治三十年頃、当時在サンパウロの弁理公使、杉村濬[ふかし]の報告書『ブラジル・コーヒー耕地の事情、及各国植民の状況』をきいて、珈琲栽培事業が邦人に適した有利な事業であることに着目して、日本駐在ブラジル公使、マノエル・カルロス・ゴンザルベス・ベレイラと云う公使に自分がブラジル珈琲栽培のため日本人移民を送りたいと申入れた。

時の通商局長、石井菊次郎も水野竜にブラジルへ渡りその実状を調査することをすすめたので、その年の十二月南米へ向ったのである。

その船中、一人の青年あり、チリの硝石地帯に入植する希望であったが、水野竜の珈琲栽培熱に共鳴して行先きを変更してブラジルへ向った。この人が鈴木貞次郎で、日本人の珈琲耕地に入植した第一号となったのである。

その後水野の交渉が進行して日本移民がブラジルへ移ったのは明治四十一年六月十八日サントス着の七百八十一名であった。その後も年々ブラジル移民が増え、勤勉な日本移民の手で、ブラジル珈琲園は美事に開拓経営されていることは皆様御承知の通りである。

関連記事