なぜ人びとは被告の減刑を熱望したのか
戦前日本において、政治家を狙ったテロ事件は、未遂も含めれば数えきれないほどの例がある。幕末維新期は言わずもがな、明治に入っても大村益次郎・広沢真臣・岩倉具視・木戸孝允・大久保利通・板垣退助・伊藤博文・森有礼・大隈重信・星亨ときりがない(室伏哲郎『日本のテロリスト』)。
大正期に限っても、外務省の局長だった阿部守太郎の暗殺を皮切りに、斎藤実・安田善次郎・原敬・山県有朋・田中義一・裕仁皇太子・徳川家達・福田雅太郎など、皇族顕官が多数標的となっている(百瀬明治『暗殺の歴史』)。よく知られる昭和初頭の事件の前後だけが、突出して多いわけではないのだ。
だがこれらのなかでも、国民世論が沸き立つほどの反響を起こし、しかも犯人側に同情が集まった事件はごく稀である。たとえば、財閥を築いた実業家・安田善次郎を殺害した朝日平吾などが、一部の人びとに賞賛されたケースはある。当初は犯行を「言語道断」とする批判が強かったが、安田家の遺産問題が取り上げられるや、新聞の論調は変化し始める。朝日の行為は、富の再分配を行わない「大富豪」への不満をはじめとする「時代の空気」を体現したものとされた(中島岳志『朝日平吾の鬱屈』)。
じつは後に国民の共感を集めた五・一五事件も、直後に報道管制が敷かれたこともあり、減刑運動は当初きわめて低調であった。新聞メディアは暗殺を批判的に報じ、世間一般は「暗殺行為そのものに嫌悪をすら感じ」ていた(『特高月報』)。ところが、事件から1年後に報道が解禁され、公判での被告の供述が始まると、世論は被告に共感して、減刑嘆願運動が発生した。被告に死刑が求刑されたことで、世論はさらにヒートアップし、嘆願書は公判開始から2ヵ月ほどで約70万通を超えた。
世論は刻々と移ろいゆくものである。このことをふまえつつも、なぜ当時の世論は被告の減刑を熱望したのか。主な理由として、二点ほど挙げられるだろう。