第一に、声なき大衆の代弁者としての被告像である。
五・一五事件の公判は、昭和恐慌の影響がいまだ強く残る1933(昭和8)年に開かれた。被告たちは、記憶に新しい悲惨な東北の「農村の窮乏」を説き、人びとの生活を顧みずに自己の利益だけを追求する「政党・財閥ら支配層の腐敗」を徹底して非難した。
他方で、犬養首相らの殺害に関しては、首相個人への怨恨などを一切否定し、「支配階級」のシンボルとして倒したと強調した。つまり「私」の利益ではなく、“大義”のために

被告たちを表現する当時のキーワードとして、「赤穂義士」「義挙」「忠臣」「桜田門(桜田門外の変)」、そして「明治維新」になぞらえた「昭和維新」という言葉が頻発する。己を
そして大衆的人気を誇った講談や浪曲などのヒーローがモデルとされ、三上中尉の作詞した「青年日本の歌(昭和維新の歌)」が知られるようになり、「昭和維新行進曲」なるレコードも発売された(ただちに発禁されたが)。大衆小説や時代劇映画の隆盛を背景として、事件がメディアミックスで取り上げられたのである(筒井清忠『戦前日本のポピュリズム』)。暗殺への批判や厳罰を求める声が一部にあったものの、大多数の人びとはきわめて自然に、被告の行為を「義挙」として賞賛する感情を共有した。
これらの反応は、当時の人びとが自分たちの声を代弁し、現状を打破してくれるヒーローの出現を待望していたことを示している。それは裏返せば、政治への強い失望である。
多年にわたる緊縮財政などの影響で、日本は長い不況に沈んでいた。大衆の声を反映するかに思われた普通選挙制度の導入も、二大政党政治の成立も期待には応えてくれない。被告の弁護人は「一警察官の任免から小学校の教員の地位に至るまで、政党によって左右され」るなどと述べて、権力をもった政党の腐敗と横暴を、法廷で非難した。被告らの主張に人びとが共感した現象の根源には、やはり当時の政治に対する不信感があったと言えるだろう。