筆者が知った逸話のなかで、印象的だったものがある。あるとき(1969年秋という)、一人の血気盛んな青年が、三選に臨もうとする佐藤栄作首相(当時)を暗殺したいと、師事する三上卓に決意を打ち明けた。すると三上は「フン」と
すると青年は「ですが、佐藤を殺して福田が出るのと、佐藤を殺さずに福田が出るとは、意味が違うと思いますが」と食い下がった。三上は「フン」と再び嗤ったが、そのまま一時間、長い沈黙に入った。そして三上はひと言、「岐阜へ行け」と意外な言葉を述べた。

縁もゆかりもない土地へ行けとの唐突な指令に、青年はとまどった。だが、首相を殺すとまで思い詰めていたのに、そのくらいの指令ができないというのもおかしい。青年はそれまでの仕事を片付けて岐阜へ行き、その地での活動を始めたという。青年とは三上の遺墨や文章を集めた『「青年日本の歌」と三上卓』を制作編纂した花房東洋氏であり、筆者は氏からの直話としてこの逸話を伺った。
当時、三上は「坊主になれ」とか「ボルネオに行け」など、他の若者にも驚くような指令を出していたという。その真意はわからない。だが筆者には、三上を決起の先駆者として慕い集まる青年らに対して、テロに走る以外の方法を示唆したように思えるのである。
この逸話より前、1961年の三無事件(クーデター計画)について、計画を打ち明けられた三上は、じつは決起を明確に否定し、押し止めていた。事件の後に三上は、指導者が自戒しなければ、現状を憂うまじめで有為な青年が「非常手段」に走り、犠牲にならないとも限らない。それを止めるのは「私の責任と感じた」と述べている(「私はおもう」)。
さらに1963年、28歳の野村秋介が、河野一郎建設相の新築の家を焼き払う事件が起きた。面識のある三上卓は証人として出廷し、「青年を突きつめた気持ちにならせることのないように」と熱弁した。