最後の巨匠ピアニストによる反時代的エッセイ

その③ 「決定版」
世界的ピアニスト、ヴァレリー・アファナシエフ氏。2022年の来日公演に合わせ、『ピアニストは語る』の著書もあるアファナシエフ氏のエッセイを月一でお届けします。3回目の今回は、音楽における「決定版」についてです。

自著『ユリシーズ・グラモフォン』の講演録に、ジャック・デリダが東京滞在中の「経験」を回想している以下のようなくだりがある。とある書店でデリダがいくつかの本のタイトルを書きとめていると、典型的なアメリカ人観光客が肩口からのぞき込んでこうぼやいた、「あまりに本がありすぎる! 決定版はどれなんだ? それともそんな本はないってのかい?」この話から、わたしはまた別の話を思い出すことになった--60年代にモスクワ音楽院で聞いたものだ。これからお話しする「わたしの」話が特に滑稽だとも深遠だとも思わない。だがこの小文の言わんとするところには、かなっているように思われる。

二人の警官が共同で、同僚に誕生日プレゼントを買うことにした。片方の警官が、贈るのは本にしよう言う。「でも本なら彼は持ってるじゃないか」、もう一人の警官が言う。もちろんここで彼が言及しているのが聖書でも、ブルーノ・シュルツによって『砂時計の徴の下のサナトリウム』で描かれた、驚異的にして多面的かつ多様なる本のことでもないことに、わたしにはいささかの確信がある。また彼が念頭に置いていたのがジェイムス・ジョイスの傑作『ユリシーズ』と『フィネガンズ・ウェイク』--先ほどのデリダがアメリカ人観光客の好奇心を満足させようとしていたときに念頭に置いていたのはこの本だった--ではないことも。こうした文学的探求という点においては「決定版」--音楽評論家のつとに愛する表現だ--という言葉にほとんど害はない。彼らが言及するのは解釈についてであって、創造行為についてではないからだ。

『人間的な、あまりにも人間的な』で、ニーチェが次のように言っている。大作曲家の作品を演奏するピアニストは、演奏のとき、かれ自身の人生の何らかのエピソードを--その作曲家の人生のではなく。われわれは、それは忘れるものだから--想い起こしながら演奏しているのだ、そう聴衆には信じさせなければならない、と。しかし人生に決定版はない。その中の1エピソードなどにはむろんのこと。

音楽演奏で「決定版」と見なされるのは何だろう。というか、そもそもこの言葉は何を意味しているのだろうか? 作品は完璧に演奏されたときにのみ--すなわち、音楽評論家たちから「決定的な」高評価を得たときにのみ--崇められ、それ以外の場合にはゴミなのか? では根本からまったく異った演奏を聴衆に提供する演奏家はいったいどうなるというのか? かれはたんなるペテン師にすぎないのか。あるいは、神学用語を借りるなら、ニセ予言者、あるいは背教者なのか?

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