北条時政が畠山重忠父子の排除を計画した政治的理由とは??

歴史家が見る『鎌倉殿の13人』第34・35話
『頼朝と義時』(講談社現代新書)の著者で、日本中世史が専門の歴史学者・呉座勇一氏が、NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』の放送内容をレビューする本企画。今回は、先週放送の第34話「理想の結婚」、昨日放送の第35話「苦い盃」をまとめて解説。史料を紐解きながら、北条時政が畠山重忠父子の討伐を計画するに至るまでの経緯や、背景にあった政治的事情に迫ります。

『鎌倉殿の13人』の第34話では北条政範(義時の異母弟)の急逝、第35話では北条時政と畠山重忠の対立が描かれた。源実朝の鎌倉殿としての成長に尽力する北条義時と、権力を得て傲慢になり独裁に走る父時政との間の溝は次第に深まっていく。歴史学の観点から第34・35話のポイントを解説する。 

北条政範の死 

元久元年(1204)8月4日、実朝の結婚相手が正式に決定した。京都の公家、坊門信清の娘である。信清は後鳥羽上皇の母方の叔父にあたり(つまり信清の娘は後鳥羽の従妹)、後鳥羽の近臣であった。

ところで『吾妻鏡』によれば、実朝の正室には当初、足利義兼の娘が決まっていたが、実朝がこれに難色を示し、京都から嫁を迎えることになったという。実朝の京都志向、王朝文化への憧れとして説明されることが多いが、実朝はまだ13歳である。実際には時政や政子の意向が強く働いたと思われる(坂井孝一源実朝』講談社、2014年)。

 

一つには、実朝と東国武士の娘を結婚させることを忌避する気持ちがあったのだろう。足利義兼(既に死没)の妻は政子の妹で、足利氏と北条氏は縁戚関係にある。とはいえ、源氏一門として高い家格を誇る足利氏が第二の比企氏にならないとは限らない。比企氏と北条氏も縁戚関係で結びついていたのだから。 

もう一つは、源氏将軍家と後鳥羽院との関係強化であろう。建仁2年(1202)に土御門通親が亡くなった後、後鳥羽院が朝廷の全権を掌握しており、朝幕関係を安定化させるには後鳥羽本人への働きかけが不可欠であった。

北条氏には田舎武士の印象が根強いが、大姫入内工作に見えるように、頼朝時代から北条氏は朝廷への接近を図っていた。建仁3年10月には時政・牧の方の娘婿である平賀朝雅が上洛して京都守護に就任しているが(『吾妻鏡』建仁三年十月三日条)、これも時政による朝廷との関係強化の一環であろう。加えて、幼い実朝の権威を高めるには、後鳥羽院の後ろ盾が必要だったと思われる。

元久元年10月14日、坊門信清の娘を迎えるため、多くの御家人が上洛した。その中に、北条政範の姿があった(『吾妻鏡』)。政範は時政と牧の方との間に生まれた男子である。

政範はこの年の4月に16歳の若さで従五位下・左馬権助(さまごんのすけ)に叙任されている(『明月記』元久元年四月十三日条など)。42歳の義時が同年3月に従五位下・相模守(『鎌倉年代記』など)に叙任、義時長男で22歳の泰時は無位無官であるから、政範の優遇は明らかだ。時政は義時ではなく政範を後継者として位置づけたのである。 

本書『頼朝と義時』p.15 より

ところが11月5日、在京中の政範が早世する。京都への旅行中に病を得て、そのまま亡くなってしまったのだ。時政・牧の方の悲嘆は尋常でなかったという(『吾妻鏡』元久元年十一月五日・十三日条)。 

時政にとって政範の急逝は精神的打撃のみならず、政治的打撃であった。既に70歳近い高齢の時政が後継者を失ったのである(牧の方が産んだ男子は政範だけである)。時政・牧の方と義時・政子との綱引きにおいて、前者が不利に傾くのは必定である。このままでは時政政権のレームダック化は避けられない。焦燥にかられた時政は権謀術数による権力の維持を図り、暴走していく。

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