「内面の富」を見つめよ……哲学者がたどり着いた、絶望的な人生を幸せに生きる方法

ショーペンハウアーの幸福論

幸福についての臆見

では、いよいよ『幸福について』の内容を見ていきたい。「人生をできるだけ快適で幸福なものにする」こと。それが『幸福について』の冒頭でショーペンハウアーが掲げる生き方の指針である(邦訳9頁)。

この「できるだけ」というところが、ことのほか重要である。わたしたちは、「できるだけ」の範囲を見極めなければならない。これは、より多くの幸福を求めるのではなく、「できるだけ」苦しみを少なくすることだと解釈できる。それが失望のうちに沈みきってしまわぬように生きていくための秘訣なのだ。

すなわち、「思慮分別のある人は、快楽ではなく、苦痛なきをめざす」。これをショーペンハウアーは『幸福について』第五章冒頭で、アリストテレスの『ニコマコス倫理学』が提示した「人生の知恵の最高原則」だとしている(邦訳190頁)。

幸福とはいったい何だろうか。わたしたちは幸福になりたいと願い、当たり前のように、「~したい」、「~になりたい」という欲望がより多く満たされ、快楽が得られれば幸福になれると考えている。そうして欲望を満たし続けて、ずっと快い生活が続くこと、それが人生の究極目標だとさえ考えてしまいがちだ。

だが、人生には挫折と失望がつきものである。そもそも欲望というものはたいていの場合、他者の欲望とぶつかってしまい、すぐに挫折させられてしまう。挫折を乗り越えて他者を打ちのめし、欲望が満たされて快楽を感じることがあったとしても、すぐに退屈がやってきて、別の欲望がまた襲ってくる。欲望にゴールはない。

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はたして、「欲望の満足=快楽=幸福」というのは、正しい考えなのだろうか。これはむしろ、哲学的な吟味によって退けるべき臆見なのではないか。この臆見を抱え込んでしまっているために、わたしたちはむしろ苦しんでいるのではないか。

ショーペンハウアーの幸福論は、「どうすれば欲望を満たすことができるか」を教えてくれはしない。むしろ、「より多くの欲望を満たせばより幸せになれる」という、幸福についてのお決まりの臆見を解体することをねらっている。

「より幸せになろうとする」よりも、「できるだけ苦しみを少なくする」こと。それが、人生そのものに失望してしまうことを避け、心穏やかに生きていくためにショーペンハウアーが教えてくれる「人生の知恵」なのである。

三つの財宝

ここからはさらに、『幸福について』の内容を詳しく見ていこう。「第一章 根本規定」では、先述したとおり、幸福の礎となる「三つの財宝」について規定されている。要は、それらを持っているかどうかで、幸福な人生になるかどうかが決まってしまうのだというのだ。

第一に、「そのひとは何者であるか」。すなわち、人柄や個性、人間性などの内面的性質が第一の財宝とされる。そこには健康や力、美、気質、徳性、知性、そしてそれらを磨いていくことも含まれるのだという。

第二に、「そのひとは何を持っているか」。これは、金銭や土地といった財産、そのひとが外面的に所有するものだ。

第三に、「そのひとはいかなるイメージ、表象・印象を与えるか」。これは、端的に言って他者からの評価であり、名誉や地位、名声である。

わたしたちはたいてい、第二のものや第三のものを追い求めてしまう。まさにこれらは、「~がほしい」、「~されたい」という欲望の対象で、どれほど多くを手に入れても、決して満足できないものである。したがって、何かを手に入れさえすれば幸福になれるという考えは、取り去るべき臆見だといえる。

もちろん、こうした第二、第三の財宝がまったく価値がないものだということではない。生きていくためにはこれらが必要であることは言うまでもないし、それらを手に入れることをよいことだとわたしたちは当然考えているし、社会生活もまたそれらの価値を中心に出来上がっている。そうしたものを一切捨て去るべきだというのが主著の〈求道の哲学〉だとするならば、『幸福について』で力点が置かれているのは、第二、第三の財宝よりも第一の財宝のほうが価値あるものだという優先順位を「あきらかにする」ことである。