「内面の富」を見つめよ……哲学者がたどり着いた、絶望的な人生を幸せに生きる方法

ショーペンハウアーの幸福論

金銭や地位より大事なもの

結局のところ、「~がほしい」、「~されたい」という欲望を節制し、コントロールできるような、穏やかな内面的性質を備えているひとこそが幸福な人生を送るのではないだろうか。すなわち、ショーペンハウアーによれば、あるひとが幸福な人生を送るか、それとも不幸な人生を送るのかは、第一の財宝である内面的性質に最も左右されるのだという。

たしかに、人生の道行きの中で、その出発点に何を所有していようとも、またどんな出来事が起き、ひとにどう思われるに至ろうとも、それをどう感じるかは、そのひとの内面的な個性による。

たとえば、気高い性格や、明晰な頭脳、楽天的な気質、心根の明るさ、心身ともに健康であること、こうした諸性質をいくらかもっていて、さらに維持増進していける人は、幸福な人生を送るための基盤が備わっているのだといえる。わかりやすいのは心身の健康だ。これがないと、どれだけ多くの財産を持っていても、そもそも楽しんだり快楽を感じたりすることさえできず、幸福だとは言えないからだ。

わたしたちはたいてい、「~さえ手に入れば、~に認めてもらえたら、~にさえなれれば幸せになれる」と考えてしまいがちだ。だが、何が手に入ろうと、誰に認められようと、陰気な者は決して喜ぶことができず、憂鬱な気質の者はずっと不安から逃れられない。気高い性格をした者は、世間が羨ましがるような莫大な財産や高い地位など持っていなくても、自分が自分であるだけで満ち足りていて、誇りを失うことがない。

ショーペンハウアーによれば、陽気であったり陰気であったりする気質や、明るかったり憂鬱だったりする気分の原因となっているのは、身体の奥深くに備わっている、不変の内面的な性質なのだという。

内面的な性質は、心の中で「受容力と再生力とのバランス」を生み出すものだ(邦訳34頁)。わたしたちの心は、外面的な刺激をさまざまな仕方で受け止め、また通常の状態に戻るための、心の反応力とでも呼ぶべき力を備えている。

それがどの程度の強さなのかはひとによって異なっていて、明るい気質のひとは何が起きても軽やかに受け止め、次のプロセスにすぐに進もうと軽やかな反応を見せるだろう。これに対して、憂鬱な気質のひとは、どんな出来事にも過度の感受性を示して重く受け止め、細部まで探り尽くさないうちは不安で決して次に進めないものである。

内面の富

以上のように、あるひとがいかなる内面的性質をもっているのかが、幸・不幸を隔てる最も重要な要素となる。これをショーペンハウアーは「内面の富」と呼んでいる。わたしたちはたいてい、財産や他者からの評価など、外面的なものに気を取られてしまいがちだ。

だが、「内面の富」を持っている者は、「まったく輸入せずにすむ国がいちばん幸福であるように」、外からやってくるものを必要とせず、自らに満足できる。すなわち、

だれでも、自分にとって最良で肝心なことは、自分自身であることにちがいないし、自分にとって最良で肝心なことは、自分自身で成しとげるものだ。自分にとって最良で肝心なことが多ければ多いほど、したがって、自分自身の内に見出す楽しみの源泉が多ければ多いほど、それだけ幸福になる(邦訳48頁)。

もちろん、財産の多寡や他者からの評価などの外面的な富をまったく気にせずにいられるひとなどいないだろう。わたしたちは日々これらのことを気にかけ、神経をすり減らしている。だが、ショーペンハウアーは以下のように断言する。

およそ生あるものは、自分自身のために、何よりもまず自分のために独自の生を営み生存するほうがよい。──どんな在り方でも、自分自身にとって最優先すべき最も大切なことは、「自分は何者なのか」ということであり、もしも、たいした価値などありはしないというなら、そもそも、たいしたものではないのだろう(邦訳175頁)。

外からやってくるものよりも、内に備わっているものこそが、幸福の源泉なのである。財産や他者からの評価よりも、自分で自分を評価し、そうして見出した内なる本質を育て、開花させていく孤独な営みこそが、幸福につながっている。

もしも自分が「内面の富」なんて一つも持っていない、そんなたいした人間ではないというなら、そんなちっぽけな者がどうなろうと、そもそも気に病む必要などないだろう。

何をどれだけ手に入れたか、ひとからどう思われたか。こうした外面的なことがらよりも、自らの内にもともと宿っている「富」に目を向けることが重要なのだといえる。

たとえそれがいまだ種でしかなくとも、いつか花開いて実を結び、幸福という収穫をもたらすその日まで水をやり続けること。それがショーペンハウアーの教える、幸福への第一歩なのである。