
「内面の富」を見つめよ……哲学者がたどり着いた、絶望的な人生を幸せに生きる方法
ショーペンハウアーの幸福論生きることと老いること
すでに見たとおり、ショーペンハウアーにとって幸福とは、より多くの欲望を満たすことではなく、むしろなるべく欲望を鎮め、心の平穏を得ることだった。そのために、次から次へと欲望を掻き立てる「外面の富」よりも、もともと備わっている「内面の富」に目を向けるべきなのである。
青年期には、より大きな幸福への憧れに支配されて、欲望のままに行動したくなるものだろう。そうして青年は欲望にひきずられながら世間をさまよい、美しい印象を与えるものを欲しがり、自分もそうあろうと我を忘れてしまう。ショーペンハウアーによれば、「青年期は詩に向いており、老年期は哲学に向いている」(邦訳370頁)。
老人は、これまでに培った経験によって、ことに人生の後半部には、幻影のような幸福よりも、不幸のほうが実在的なものだということが理解できるようになるのだという。長く生きていれば、周囲にいた人々がどんどん視界からいなくなっていき、死を目の当たりにしていくものである。
そのとき、生について客観的に考えれば、その本質が苦しみであるということがわかるようになるのだ。だから、とりわけ老年期になると、より大きな幸福を求めて避けがたい苦しみのなかに自ら飛び込んでいくよりも、なるべく不幸を避けて、心穏やかに暮らすことこそが真の幸福だということに気がつくのである。
魂の世話
ショーペンハウアーの『幸福について』における幸福論は、「魂の世話」としての効用をもっていると言ってもよいだろう。古代ギリシア・ローマ以来の哲学思想の伝統のなかには、哲学的に考える方法やその教えをある種の「ケア」(=世話、気遣い)とみなす思潮がある。
もちろん、哲学というものは「知への愛」であり、真理の探究をねらいとする、純粋に理論的な営みである。だが、心痛のもとになってしまうような臆見や思い込みを解消する哲学の営みは、健康でバランスの取れた、理性的な人生を生きるための、ケアの一環としても広く理解されうるものである。
たとえばソクラテスは、金銭や評判、名誉のことよりも、「魂」をできるだけ優れたものにすることを何より重要なことだとみなしていた。あるいは、古代ギリシアのエピクロスという哲学者は、死の恐怖を癒すために、ある種のセラピーとして唯物論の考えを提案していた。
すなわち、この世界に物質しか存在しないのだとしたら、死後の世界や自分の魂のゆくえを怖がる必要はないのだとしたのである。
この伝統において、哲学的に考えることとは、ことがらの本質を客観的に解明することによって、非理性的な欲望を鎮め、心を乱してしまう臆見を解体する営みだったといえるだろう。
この伝統のうちにショーペンハウアーを位置づけられるのだとすれば、彼が示してくれている幸福への道のりとは、何かを手に入れて欲望を満たすことなのではない。むしろ「意志の否定」の立場から、苦しみの源泉となっている臆見を客観的な議論によって解体し、欲望を鎮静化させる道のりである。
ショーペンハウアーの哲学は、「意志の否定」という真理に照らして、過ぎたものを求めることを「あきらめ」、より重要な幸福の種が何なのかを「あきらかに」することで、心を穏やかに生き抜く術を教えてくれるのである。
以上のことから、『幸福について』に最もよく表現されている晩年のショーペンハウアーの思想は、〈処世の哲学〉として特徴づけることができるだろう。
若き日の〈求道の哲学〉は、俗世を逃れて「意志の否定」という無の境地を彼方に求め、身を賭して完全なる自己放棄を目指す、求道の哲学だった。これに対して晩年の〈処世の哲学〉は、「意志の否定」という真なる認識をあらゆる物事に応用し、もはや欲望に惑わされることなく堂々と俗世を闊歩する、老練なる処世術なのである。