なぜ「生まれてこないほうがよかった」のか? 反出生主義の源流を探る

ショーペンハウアー哲学と「苦しみ」
苦しみに満ちた人生を、いかに生きるべきか。欲望を原動力とした現代社会の歪みが、生きづらさに拍車をかけている。最近では「生まれてこなければよかった」と嘆く若者たちも増えているという。いまこそ、「生きるとは何か」を真剣に考えるべき時代だと言えるだろう。

哲学者・ショーペンハウアーは、私たちの多くが抱える「苦悩」について、誰よりも深く考えた。その思想は、近年注目が高まる「反出生主義」にも大きな影響を与えたとされる。

9月15日(木)発売の梅田孝太『今を生きる思想 ショーペンハウアー 欲望にまみれた世界を生き抜く』より、ショーペンハウアー思想の現代的意義を解説する。

ショーペンハウアーのアクチュアリティ

現代日本社会はとにかく生きづらく、どう生きるべきかを見出しがたい状況にある。そうしたなかでこそ、生の本質を見つめ続けたショーペンハウアーの哲学が読まれるべきだ。

ショーペンハウアーの哲学が、現代日本社会に生きるわたしたちが苦しみ、悩んでいる問題に、どのような回答を指し示してくれるのかを考えていきたい。

 

ショーペンハウアー哲学にはさまざまな応用可能性がある。たとえば近年議論が盛んになってきている動物倫理についてだ。人間が一方的に動物を食物や愛玩物として利用する関係は、不公正なのではないか。それが動物倫理の出発点となる問いである。今日、人間と動物との公正な関係が問い直され始めている。

ショーペンハウアーは「意志は一つである」と考えていた。主著でショーペンハウアーは古代インドの叡智を引用してこう表現している。「汝がそれである」(tat tvam asi)──人間も動物も、生きとし生けるものは同じ苦しみを抱えている。

したがって、人間だけが苦しんでいるのではない。苦しんでいる動物を根本的には人間と同じとみなすことこそ、公正な認識というものだ。

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この洞察にもとづくショーペンハウアーの倫理学が目指すのは、動物のみならず、生きとし生けるものを愛し、その苦しみを緩和することである。このように、ショーペンハウアーの主張は、人間中心主義を否定し、「共苦」という考え方によって動物を救う動機を基礎づける存在論および倫理学として解釈できるのである。

ベネターの反出生主義

ショーペンハウアー哲学のアクチュアリティとして、他にはどのようなことが考えられるだろうか。たとえば、「生きることは苦しみである」という彼の主張は、現代の反出生主義の議論にも大きな影響を及ぼしているとされ、注目を集めている。

反出生主義とは、「すべての人間あるいは感覚ある生物は、生まれてこないほうがよい」という倫理学上の立場のことだ(註1)。注意してほしいのは、「生まれてこないほうがよかった」からといって、「では死ねばよい」ということにはならない、という点である。

反出生主義の倫理学は、「生まれてこないほうがよかった」という立場で生きる人がいてもよいのだということを、大多数の「生まれてきてよかった」ということを当然のことだと思っている人に対して伝え、抑圧を禁じるものである。というのも、倫理学はまさに、どういう生き方が本当に「よい」生き方なのかを探究し、従来の臆見を更新していく学問だからである。

こうした倫理学の研究領域の中で反出生主義が理論的な立場として取り上げられたのは、21世紀に入ってからのことだ。

反出生主義の理論化によって大きな議論を呼び起こしたのが、デイヴィッド・ベネターの著作『生まれてこないほうが良かった』である(註2)。ベネターによれば、わたしたちは生きているかぎり、苦痛や不快などの避けるべき「害悪」を必ず経験するのだという。

こうした「害悪」は、無いほうがよい。そもそも生まれてこないほうが、生まれてきて「害悪」を経験するよりもよいのではないか(註3)()。ここに響いているのは、古来、世界中のいたるところで叫ばれてきた、「生きることは苦しみである」という洞察である。

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