2022.09.16

「子育て」という仕事が社会的価値を失い、保育がビジネス化される日本に“未来”はあるか

現在の「正しい生き方」への疑問

人間には生まれながらの基本的人権があり、それを侵してはならないことは当然だが、しかし、個体にはさまざまな差がある。知的能力の差もあれば、運動能力の差もあるし、健康な人もいれば、病気の人もいる。音楽や絵画の才能、あるいは優しさや勇気や、美醜の差と、一つたりとも同じではない。

それなのに最近では、差は一切ないように振る舞うことが正当だとされている。オリンピックや、音楽コンクールなどでの熾烈な戦いは別世界の出来事で、一般の人間の間では競争は悪いことで、能力の差もあからさまには認めない。

「同じ仕事に対して同じ報酬を」という主張はある意味正しいことだが、「同じ仕事」というのが、同じ時間そこにいたことを指すのか、こなした仕事量が同じという意味なのか、それを定義することが難しい。

しかも最近では、その一切の差を否定する風潮がさらに進化し、自然なことであったはずの男女の性差までが、認められないこととなりつつある。

Gettyimages

子孫を増やすということは、つい最近までは人類にとっての最重要事項であり、子供を産めるのは女性だけで、おっぱいをやって育てられるのも女性だけだったから、それに基づいて自ずと男女の役割が決まり、生活のパターンが出来上がっていった。

古代よりついこの間まで、子供を産み、その子供を育てることが差別だと感じていた女性がいたとは思えない。今でもおそらく少ないだろう。男性は男性で、子孫を残すというその最重要事項を完遂するため、やはり当然のこととして、彼らなりの役目を果たしてきたのである。

 

ところが現在の風潮では、女性は出産後、1日も早く赤ん坊を託児所に預けて社会復帰することが「正しい生き方」となっている。

実際、女性には子供を産んで育てること以外にもさまざまな才能が備わっているので、本人がそれを発揮することを望み、そこに生きがいを見出すなら、もちろん、子育てを早々に他人に任せることに反対する理由は全くない。子供の発達に重篤な皺寄せがいかない限り、それは個人の自由である。

ところが、私が疑問に思う点は、現在、特にヨーロッパの西側諸国では、出産後、しばらく自分で子育てをしたいなどと言い出す女性は、“自己実現を求めない遅れた女性”とされてしまうことだ。今では、妊娠したいかどうかは女性が自分で決められるし、妊娠を無かったことにする自由も女性にあるというのが常識だ。

女性の権利は、ある意味、有史以来最大になった。しかし、その分、なぜか子育ての価値は地に落ち、子育てを自分でしても、それは社会的活動でも社会貢献でもなく、あたかも失われた能力、あるいは、失われた労働力と見做されるようになってしまった。

これは、子育てがお金をもたらさないからだろうか。もし、そうだとすれば、女性が子供を育てながら、この「お金で測られる世界」に参入すること、あるいはしなければならないことは本当に正しいのか? それが、私がかねがね感じている疑問だ。

 
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