この国の「本当の課題」
それゆえ、この失敗を自民党安倍政権だけに押しつけるのは筋ではない。責任の大きな一端は現政権にあるが、それがすべてではない。
今の復興政策の筋を書いたのは、当時の政権であった民主党である。震災発生時の2011年3月の政権は菅直人内閣であった。
そして、今では評判の悪いこの政権こそ、「想定外」の震災で「国家が吹っ飛ぶ」事態を目の当たりにして、避難を必死で誘導し、また津波被災地からの復興においても、減災を中心とした、自然と調和し、民間の力を尊重した復興をはじめていた政権だった(とくに東日本大震災復興構想会議)。
その方向性を大きく変え、90年代以前のやり方に引き戻したのは、2011年9月に総辞職した菅政権にかわって政権についた、同じ民主党の野田内閣であり、安倍政権の復興政策はそれをそのまま引き継いだものともいえる。
野田佳彦首相が、震災時の財務大臣であったことには、この反動がいったい何を意味するのかを解く手がかりがあるような気がしてならないが、ともかくこの問題はどうも党派には関係ない。むしろ追求すべきは次のことだ。
いまの私たちが日々進めている政策形成過程には何か大きな欠陥がある。この欠陥を変えることこそが、私たちに課せられた大きな問題なのだ。そしてそのためには、国民の国策への参与・共同がまずは不可欠であり、いまや国民の参画が次々と封じられつつある以上、このことは絶対的な条件というべきかもしれない。
またそこには、土木や原子力関係の科学が深く介在しているのだから、科学の積極的な政策参画が求められ、それも技術的な問題としてこれを解くのではない、人間科学的な視点が十分に参照される必要があるということだ。
今回、被災地では、例えば気仙沼では早い時期に民間の力で大規模な勉強会が行われ(気仙沼市防潮堤を勉強する会)、各地では巨大防潮堤を極力抑え、減災を組み込んだ等身大の対案が提案されてきた。
また原発避難対策については、帰還か移住かの二者択一から、第三の道としての超長期避難を提唱する学術の動きがあらわれ(「東日本大震災からの復興政策の改善についての提言」)、その学術的検討がさらに進められている。これら住民や科学の動きに対して、政治や行政が頑なにその変更を阻んできた。
新しい考え方が生まれてきても、それを受け止める政治過程がない。それどころかここにきて、旧来の路線をさらに拡張するような、イノベーションやインバウンド、(国内外の観光地域づくり体制)やCCRC(継続介護付きリタイアメント・コミュニティ)など、異様な政策だけが幅をきかせて次々と採用されている。
もはやいま起きているのは、震災・原発事故をきっかけとした政治・行政の「暴走」である。
全て政治と行政で解決できる、技術と予算で解決できるというやり方が、地方創生という形にまでエスカレートしつつある。震災と原発をきっかけにして、これまで抑圧されてきた体制に反動がおき、逆回りした歯車の回転が普通の力では止められないくらいに早く大きくなっている。
ある意味では政府や官僚も含め、誰にもどうにもできなくなっており、心ある人たちはどうやったらこれを止められるのか苦悩しつつ、出口の見えない復興政策に付き従っている状態だ。震災をきっかけにして、私たちの社会システム自体がコントロール不能に陥りつつある。
もはや今進めている復興政策は失敗なのだ。それどころかこのまま進めることはこの国の破滅にまでつながりかねない。政策転換を早く成し遂げることこそ、政権を担う人たちが果たすべき重大な責任になる。
国策の責任は政治家にある。そしてそれは選挙によってチェックされる。私たちは選挙を通じて、そうした適切な判断ができる人物を選び、必要な変更を迫ることができる。
むろん選んだあとも、具体的な問題について、しっかりと意見を挙げ、事態を分析し、適切な作動が速やかに行われるよう要請していくことが必要だ。選ばれた政治家はこれらを適切に判断し、必要な決断を加えていく――。これがこの国を動かす基本的な設計図である。
逆に言えば、今の状態を招いた背景には、政治家を選ぶ国民の側にも重大な欠陥があるのだ。選挙は人気投票ではない。まして国政は国民自身も担うのであって、選挙は政治家にすべてを委託する手続きではない。
だが選挙で選べば、あとは何か起きても、国が「なんとかしてくれる」と国民は思っている。国民が政治に依存し、国家に頼り切っている。これは当の被災者・被害者においてもそうなのだ。
そして政治家や官僚たちは、この国民の「なんとかしてくれる」に一生懸命応えようとしたがゆえに、こんな事態を引き起こしたともいえる。なぜなら国家の力だけで、こんな巨大な災害・原発事故を処理することはできないからである。