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1988年第18回中部地区選抜中学校野球大会にて。2年生捕手として出場。根上中学は準優勝。『ひでさん〈松井秀喜ができたわけ〉』より  

松井秀喜「天狗になりかねない」…突出しすぎた中学時代

松井秀喜ができたわけ⑤秀喜の「最大の美徳」

11/2(土)18:30~放送の『FNS27時間テレビ にほんのスポーツは強いっ!』にて、今でこそトップアスリートだと誰もが認める松井秀喜氏の星稜高校在学時の秘蔵映像の公開が予定され、放送を心待ちにしていた人も多いだろう(秘蔵映像のコーナーは11/3(日)13:00~放送予定)。

そこで今回FRaU WEBでは、そこからさらにさかのぼり、中学生時代の松井氏のエピソードを、幼少期から読売ジャイアンツに入団するまでの道のりが綴られた講談社文庫『ひでさん〈松井秀喜ができたわけ〉』より抜粋掲載し紹介しよう。

誰もが認める名野球選手・松井氏はどのような厳しいトレーニングや経験を積み、どのような思いで苦しい日々を乗り越え今の姿へと至ったのか。才能ゆえに持ち上げられたら、天狗になってもおかしくなかっただろう。そんな松井氏が、人格者として成長した理由は何か。彼の強さと人柄の秘密に迫りたい。

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秀喜のバッティングを見てコーチは……

高桑はショックを受けていた。

「少年野球ですごく打つ選手がいる」と聞いていたので、秀喜に会うことを楽しみにしていたのだ。しかし第一印象は、

――太っている。この体型で野球ができるのか?
と大いに疑問を抱かせるものだった。中学1年になった秀喜の身長は170センチ、体重は95キロもある。

――他の人の目から見ると凄いかも知れないが、体型を見た限りでは話に聞くほどではない。

根上中学野球部コーチの高桑充裕は根上中学出身で星稜高校、駒澤大学という学生野球界のエリートコースを歩んできた。甲子園出場3回、大学リーグでは2回の日本一を経験している。大学卒業後、根上町役場に勤務し同時に根上中学野球部のコーチに就いた。今年2年目になる。

1年生はまず球拾いから始まる。もちろん秀喜も同じだ。球拾いをしている間、体が大きいとはいえ秀喜はさほど目立つ存在ではなかった。

5月、1年生にもようやくバッティングをするチャンスができた。それを見て高桑は思わず唸った。

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――打球の速さ、スウィングの速さ、パンチ力、やっぱりうわさ通りの子だ3年生と比べても引けを取らない。あるいは超えている。

秀喜のバッティングを見て度肝を抜かれた。太っているから鈍いという固定観念を見事に覆された。

――ものになる。そのためにはまず野球をするための体型になることが先決だ。

監督が注目した、秀喜の「潜在的能力」

5月のゴールデンウィーク明けから秀喜には特別メニューが組まれた。他の1年生が球拾いをする中、秀喜は3年生のピッチャーと同様にランニングを主体とするものに変わった。4時に練習を開始して6時まで、約2時間がランニングである。ダッシュも含め10キロ近く走る。

根上中学は秀喜の通っていた浜小学校と隣り合わせに位置している。野球部の練習が行われる運動場に面して校舎が建ち、それを挟んで体育館がある。走るコースは運動場から校舎の周りをぐるっと回る。1周約600メートル。3年生は1周を5分で走るので15周は走る。

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――1周6分かかるな。

高桑は時計を見た。秀喜はスピードについていけない。太っていることが原因で持久力がないのだ。そのうち10分以上かかりはじめた。秀喜がちょうど校舎を曲がった頃、高桑はのぞきに行った。すると秀喜は歩いていたのだ。その時は見て見ぬふりをして、戻って来た時に声をかけた。

「時間かかったねえ」
「はぁ」

飄々と答える秀喜。その時、高桑の右手は秀喜の頬めがけて飛んでいた。秀喜は歯を食いしばり、避けなかった。このような反応を見せたのは高桑が指導した中で1人だけだった。

根性がある。特訓すればするほど成長すると確信した。
 

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3ヵ月もすると秀喜の体は目に見えて変わってきた。贅肉がとれて、本来の強靭な脚がむき出しになってきた。

そんな秀喜の姿をじっと見ていたのが、監督の宮田宏だ。根上中学の社会科の教諭でもある。高桑とは対照的に柔らかな口調、手を出すのではなく、冷静に観察しながら部員の心理を読み取っていた。

秀喜はどんな過酷な練習が続いても、弱音を吐くことはなかった。宮田が注目したのは叱られても叩かれても、すねないという秀喜の性格だった。

――すねない。それは最大の美徳

そこに秀喜が大きくなる潜在的能力を感じていた。言い訳じみたことも言わない。叱られるたびに大きくなる。体作りの厳しいトレーニングに挑む秀喜の姿を通してそう見ていた。

宮田は秋には秀喜を1年でレギュラーに抜擢した。ポジションはキャッチャーだった。1年上のエースピッチャーは荒れ球で剛速球の持ち主。それを捕れるのは秀喜しかいないという判断からだ。

辛くても投げ出さなかった理由

秀喜は根上中の野球部の厳しさは、噂で聞いていたけれどまさかここまでとは思っていなかった。鼻血出てくれと思うことも少なくない。鼻血が出たら練習が休めるからだ。怠け心も時にはむくむくと顔を出した。体力より精神的な限界との戦いだった。

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――投げ出そうと思えば投げ出すこともできる。

しかしやめたいとは一度も思わなかった。それは小学1年の時に少年野球チームをやめなければならなくなった、あの経験があったからだ。

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――チームに入ってやりたい。けれどもやれない。

あの辛い体験、ショックを引きずっていた頃、空白の4年間。それを思うと練習がきついことなどたいしたことはないと思えた。チームに入って野球がやれるだけでうれしかったのだ。

2人の心配をよそに
秀喜に備わっていた「責任感と自制心」

中学2年の夏が終わると3年生はやめていく。新チームになり秀喜はキャプテンに選ばれた。同時にキャッチャーからピッチャーに転向した。

「誰もいないから頼む! おまえしかいない」

秀喜が望んだのではなく、チーム事情からだった。宮田と高桑は秀喜のワンマンチームになってしまうことを懸念していた。

「どう考えてもワンマンチームになるわな」
4番でエースでキャプテン、実力は突出している。

「ひとつ間違えると松井だけのチームになりかねない」
「普通なら思い上がる条件は揃っている」
「そうなると、せっかく伸びるはずの才能が止まってしまう」

「松井が柱というのは誰もが認めている。本人もそれがわかっていて、責任感を持つのはいいけれども、それが高じて天狗になりかねない」
「自分が抑えて自分が打たなければ勝てない。だから周りは足を引っ張るな、という人間になってほしくない」

宮田と高桑の意見は一致していた。
ところが2人が心配するまでもなく、天狗になるどころか、今まで以上にチームを引っ張っていく責任感と自制心を身につけていた。練習中は人一倍声をあげ、チームメイトの動きに気を配って声をかける。

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キャプテンとしての秀喜はおおらかで、要所要所で声をかけてくれる良き兄貴としてみんなから頼りにされた。

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中学3年の春、練習試合が行われることになった。秀喜はエースで4番、そしてキャプテン、チームの大黒柱としての出場だ。

この試合中、宮田は冷静に分析していた。バッターボックスに入る時の雰囲気が段々と静かになってきていた秀喜を見て、バッターとして自信を深めていった様子を感じていた。堂々としている。相手チームのピッチャーもそんな秀喜の立っている姿に脅威を感じている。

――松井さえ抑えれば勝てる。

そう思わずにはいられない雰囲気をすでに醸し出していたのだ。


次回は11月10日(日)に公開予定です。

『ひでさん〈松井秀喜ができたわけ〉』
松井秀喜。日本で知らない人はいない。それでは、彼は一体どのようにして野球選手としてだけではなく、一流の素晴らしい人物になったのだろうか。両親の育て方から、家族とのふれあい、学生時の交友関係、そして初恋まで……彼の秘密と魅力が満載。幼少期の貴重な写真やNYでのインタビューも収録。 その中から厳選したエピソードを特別に今後も限定公開予定。お楽しみに!

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AUTHOR

  • 赤木 ひろこ

    作家

    赤木 ひろこ

    フェリス女学院短期大学卒業後、NHK岡山放送局でキャスター・リポーターとして様々な番組に携わる。

    その後、フジテレビの情報、報道番組でリポーター、またスポーツ番組でキャスターを務め、

    現在、米国MLB取材など、数々の取材現場を経験し、大勢のインタビューをしている。

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